別館「滄ノ蒼」

17:45

 肩にひっかけただけの黒いコートの袖が、のたり、と流れた風にあおられた。

 空が、あいかわらず腐肉のように赤い。
 いいかげん見慣れたとはいえ、風の冷たさも鋭さも忘れてしまったような平坦なその色は、見上げていると気がめいる。
 のしかかってくる赤さ。動かないその空間。ずっと変化しそうにない、その色。ひとつ所に留まってもおらず、昨日よりもスピードを上げて見下ろす景色を求 め、昨日と全く違うダイスの目を期待する賭博師にとっては、うっそりとした嫌悪を呼び起こされるだけの、見上げれば変わらずそこにある、それ。
 ――ならば見なければ良い、と言ったのは誰だったか。
 部屋に閉じこもって皆に守られているがいい、ファルコンの操縦は任せておけ、お前がいなくても俺がなんとかしてやる、なんだったらエンジンに回転のこぎ りをつけて駆動力を3割増にしてやろう――などとよけいな言葉がついてきたので、最大級の悪口雑言を投げつけてお引き取り願ったのはよく覚えている。
 ――ならば、見なければ良い。
 小さくつぶやきながら、空を見上げた。青空も夕闇も満天の星も、ずいぶん長い間見ていない。やはり、うっすらと嫌な、鈍重な気分になるばかりだ。
 だが本当は、青空と星空をまた見上げるためにそうしているのだ。この艇を手に入れた時に、自分に誓った。かつて見た空の色を取り戻そうという意志を鈍らせないために、嫌な色ばかり見上げているのだ。
 らしくないロマンチシズムだ。だから、誰にも言わない。
 セッツァーは指の間の紙巻に視線を落とした。
 つるりとした手すりに置かれた自分の手。細い煙とともに、癖の強い甘い香りが立ちのぼっている。
 特に銘柄はこれと決めているわけでもなかったが、今シガーケースに入っている紙巻はわりかし気に入っていた。たいして希少でもない、比較的ありふれた香 り、……だった。嗜好品のたぐいを消費する者はごく少数となり、物もまた貴重品になってしまった、このろくでもない世界に変わる前は。
 頼りなげな温い風に、煙草の煙はゆらゆらとまぎれていく。空の上であれば吐き出す間もなく散っていくはずの紫煙は、この死にかけた土につながる甲板の上では立ちのぼる気力すら失ってしまうらしい。
 小さな火口を、セッツァーは携帯灰皿に押し付けた。

 ごく小さな足音が近づいてきて、人一人分の間をあけた隣にふわりと止まった。
見やるまでもなく、ティナだとわかった。ほかの奴らならもっとはっきりした足音をしているか、もっと騒がしい。
「セッツァー」
 小さく呼ばれて、セッツァーは視線だけをそちらに向けた。
「今日はずいぶん長いこと、ここにいるのね。もうすぐ夕食ができるわ」
「もうそんな時間か」
 今日の食事当番は、さて誰だったか――と、本日二度めの思考をめぐらす。そうそう、カイエンにリルム、あとは確かモーグリだ。乏しい食材で最大限に美しい彩りを皿に描こうと、絵師の少女は他の二人? にびしばしと指示を出しているところだろう。
 ティナはしげしげとセッツァーの横顔を見ていたが、不意に口を開いた。
「ねぇ、セッツァー」
「あ?」
「珍しいわ。髪、結んでるのね」
「ああ……さっきちょっと機関室に行ってきたからな」
「そうなのね」
 機関の様子を見るついでに、少しの作業を済ませてきたところだ。そのときに邪魔になる部分を適当に紐でくくって、そういえばそのまま出てきたのだった。
「でも。なんでいつもは結んでないの? 時々、思ってたの。なんで髪をのばしてるの?」
「……。似合ってんだろ?」
 いいかげんな言葉に、とりあえずティナはこくりとうなずくが、単純に引き下がりもしない。あいかわらず顎に細い指先を当ててセッツァーの横顔をじいっと見つめ、考え込んでいた。
 おとなしやかな外見に惑わされがちだが、こういう小さなところで、並の少女にはない鋼鉄の意志の片鱗を見せるのがこの娘たるゆえんだと、賭博師は知っている。
「みんなの中で、髪を伸ばしてる人って多いわよね。エドガーの髪が長いのは王族の慣習だって聞いたし、カイエンはドマの武人の風習だって言ったわ。礼装の時には髪を結ってかぶりものを櫛で止めるんですって」
「はぁ、なるほどね」
「ガウは……今まで切ってなかっただけだと思うけど、切る? って聞いたら触られるの嫌、って言って逃げてしまったわ」
 だからあなたも、なにか理由があるの? と、ティナは賭博師に水を向ける。
「あー、……俺のはまあ、商売道具だな」
「道具?」
「いい具合に表情が隠れんだろ」
 少し自虐的な色を宿した口調で賭博師は言い、口の端だけをちょっと持ち上げた。いつもなら髪で隠れるその横顔も、今はティナからははっきり見て取れてしまうだろう。
 しばらくティナはしげしげとセッツァーの横顔を見ていた。何の含みもなくまっすぐで透明なその視線に、セッツァーはどうにも尻のあたりが居心地悪く感じるのだった。

 うすら暗い空から流れおちてくる生温い風が、また、のたりと髪の先をなぶる。

 不意に、ティナは小さく「あ」と叫んで、手すりから身を乗り出した。
「エドガー! マッシュ!」
 そして大きく手を振る。少女はセッツァーを振り返り、小さな花がほころぶように笑った。
(あ、本当だな)
 遠目にもひときわ魁偉な人影と、それよりは一回り小さいが堂々たる人影が、並んでこちらに向かってきているようだった。セッツァーはひとり、舌打ちする。
「けっ、そろって帰ってきたか。こりゃ夕飯後がそうとう騒がしいこったろーな」
「……何か、あったの?」
 不思議そうに問うたティナに、賭博師は「何もねぇよ」と返した。
「いい年して気持ち悪ぃくらい仲良いよなあいつら、って話だ。でかいのが二匹でじゃれるもんだから騒がしくてたまらねぇよ。何しに出てたんだか知らねぇけどな」
「仲が良いのはいいことだわ」
 ティナは「母」の顔をしてふわりとわらった。
「本当は仲良くしたいのに相手を負かそうとしてけんかばっかりしている、男の子の兄弟だとそういうことが結構あるから」
「……そうなのかねぇ」
 セッツァーは、自分の兄弟などいるのかいないのかも知らない。
 自分とよく似た男が、自分の最大の理解者であり、かつ自分の存在を脅かす最大のライバルとして常に近くにいるというのはどんな気分なのか、全く想像もつかなかった。
 あの双子の場合は、生まれた時からくっついてきた身分も手伝って、自分とそっくりな存在である相手を恐れたこともあっただろう。
 おそらく――「自分と差し替えられてしまうかもしれない相手」として。
 だから、お互いに、注意深く、それぞれの自由と意志を求めたのだろう。話で聞いただけだが、十年の別離は、あの双子にとっての、精一杯の喧嘩でもあったのかもしれない。
 だが今は、二人は仲良く並んでこちらに近づいてきている。
 よく見れば、モンクは恐れ多くも某国王の襟首を軽く捕まえているようにも見える。それにしても双子の兄の方は、なんだか嬉しそうににこにこしながら肩をすくめて、弟を振り返ったりなどしているのだ。 
 セッツァーは新しい煙草に火をつけ、くくっと小さく笑った。
「あいつらな。こっから見ると、歩き方とか姿勢とか、まったく同じでやんの」
「わたしは、仕草がそっくりだと思うわ」
「仕草ぁ?」
 賭博師はもういちど、手すりの向こうに視線を投げて双子を見やった。互いに少し拡大縮小したような人影ふたつは、長い2対の脚を同じように交互に動かしてこちらに近づいてきている。
「仕草なぁ。そんなに似てるとは思わねぇけどな……」
「そっくりよ。顎のあたりに手を当てたりとか、考え込むときにちょっと斜め下を見たりとか」
「あー…さすが女は細かいところ見てるよなあ」
 男の仕草なんざしげしげ見ねぇよな、とつぶやいて、賭博師は紙巻を口に運んだ。
「そうなの?」
「そういうもんだろ」
 ティナは頬の横あたりに手を当てて考え込んでしまった。子供たちの言動や仕草には等しくじっくりと気を配る「ママ」にとっては、どうにも理解しがたい言葉だったらしい。
 そのせいか、エドガーがウインクしつつ手を振ってみせたのには気づかなかったようだ。
 ざまみろ、と小さく舌を出して、賭博師は手すりに肘をついた。
 曇天のままでも、日が傾いていくのはわかる。空の赤みが暗さを増し、高い所からだんだんと、藍色と墨紫色の気配がのしかかってきた。
 曇りのせいで、歩いてくる双子の足元には影ができない。ティナは少し空を見あげ、再び視線を地上に落とした。
「マッシュって、ここから見ても姿勢がいいわね」
「モンクだからな。何つったか? 両足の裏は等しい力で地面を捕え指を軽く組み深く息を吸って背中をのばし頭のてっぺんが引っ張られている感覚を常に保ち、なんたらかんたら」
「空と地面とを一直線につなぐ感覚で――だったかしら。セッツァーも覚えてしまったのね」
「あんだけ毎日ガキどもに繰り返してりゃ覚えるよなぁ」
 マッシュは今は、兄に向って何やら繰り返しているらしい。にこにこしながら腕をぐるぐるさせている。
「しかしすげぇよなモンクってのは。使った食器一式を一動作で片付けるのも、背中の後ろで針が落ちる気配に神経を行き届かせるのも、頭に水の入ったコップをのせたまま回し飛び蹴りするのも修行なんだと」
「すごいわ」
「……いや、三つめは嘘な」
「嘘なの?」
「嘘だろ」
 賭博師は片方の肩だけをすくめて、紫煙を空に向けて吐いた。
 隣の少女は手すりに肘をついて、しげしげとマッシュを見ている。おそらく嘘だと言わなければ、マッシュの所に飛んでいって実演して見せてくれと手を合わせかねなかった。内心ほっとした。
 ティナは双子に視線をあてたまま、口を開く。
「エドガーも、マッシュとは少し違うけど姿勢がいいわよね。ときどきマッシュと一緒に瞑想しているそうだけど……、その効果かしら?」
 セッツァーはちらりと沙漠の国王を見下ろした。
「いや……、あいつぁ腐っても国王様だからな。体に染みついてやがんだろ、堂々とした立居振舞いって奴がよ」
 実際、仲間がファルコンの広間に集まれば、エドガーはその中でもかなり目立つほうだ。街に出ても、やんごとなき雰囲気は隠しきれないようで、すれ違う人々が目で追っていく確率はかなり高いものだった。
 ただし、男性の、やや敵意を含んだ好奇の視線の方が、女性の好意的な視線よりも多いように思えるが。そんな気がする。それは多分、贔屓目ではない。きっと。
 一度、料理当番を務めているエドガーの背中に向けてダーツを投げてやったところ、鮮やかな手さばきでオムレツを皿に投げ込んだ、その返すフライパンで見事にたたき落とされてしまったのだ。あれには全く腹がたった。
「……嘘なの?」
「ほんと。マジ」
「……なんでも、できるのね。エドガーって」
「全く、嫌味なこった」
 賊にまで化けちまうんだからよ、とセッツァーは言った。
 エドガーが仲間と合流する前、盗賊だか山賊だかに身をやつしていた、という話は、ティナは他の仲間――主にセリスから聞いただけだ。その時のことをマッ シュにも聞いてみたことがあったが、「一目で兄貴だってわかったよ! 俺は!」と目を輝かせて繰り返し力説するので、少し困った。

 マッシュたちが何を話しているのかは、まだ聞こえない。
 ほかの何にも似ていない色なのに、ひどく平坦で下手くそに塗りたくられた絵の具みたいだ――リルムがいつだったかそう評した色の雲が、相変わらず大気をぬりつぶしている。
 エドガーが、ちらりと空をみあげたようだ。
「あのな、ティナ」
 とりとめなく淡々と、セッツァーも言葉をつないだ。
「エドガーの奴な。あいつ誰にも言ってねぇけどな、山賊だか盗賊だかの前は海賊としてテュポーンを追っていたらしいぜ。神出鬼没の奴を捕まえ、500人分のタコヤキにして盛大なタコヤキパーティーを開こうと」
「……それは、嘘なの?」
「ああ、嘘だな」

 生温かく不透明な空気がまた、少女の髪の先をかすめていった。

「……でも、」

 黄金色の双子は、薄闇の中でもはっきりと表情が見てとれるほどの距離まで近づいてきている。

「でもね、みんなが美味しいものを食べられるように頑張る、ってエドガーらしいと思うわ」
「……そうかねぇ」
 セッツァーは再度、片方の肩だけをすくめ、今度は明らかに嫌そうな顔をしてティナを見やった。
「マッシュも、そうだと思うの。二人とも、皆で分かち合えるならそうすると思うの」

 賭博師はすこし少女の横顔を見ていたが、ふいと視線を落して双子を見下ろし、口元から煙草を離した。
 二人は同時にこちらを見上げる。
 そのタイミングを見計らい、セッツァーはやや芝居がかった手つきでティナの肩を抱き寄せた。
 「あ」という形を二つ並んだ口が作ると同時に、賭博師はにやっと笑って見せ、翠の髪をさらりと指先で弄びつつ、ティナの肩を抱いたまま昇降口のほうに姿を消した。

 双子は線対象の動きで顔を見合わせただろう。そしてはじかれたように、てんでにファルコンに向けて駆け出しただろう――

 その様子を思い浮かべ、セッツァーはくくッと喉の奥で笑った。
 そして階段を降りはじめながら、長い睫毛をぱちぱちさせつつ素直に抱き寄せられたままでいた少女を、腕の中から解放した。

 

 

 

(2012.10)