別館「滄ノ蒼」

caseA,Rachel

(あなたなんか)
(あなたなんか、いらないの)
 ――それでも私の体はいまだに、彼を捕まえている。



 私はゆらゆら漂っている。
 死者が本来行くべきところへ、どう行けばいいか私は知っているのに、どうしても行けないままで、この地下室につなぎ止められている。
 行くべき場所へ行こうとすると、最初の何回かは弾かれた。電流が流れているような見えない壁に阻まれた。足を向けようとすると、わかっていたはずの道筋 が、頭の中で蕩けて消えた。ようやくたどりついた魔列車の改札人は、「体がまだ生きているから」切符を切るわけにはいかない、と気の毒そうな顔で言った。

 私をつなぎ止めているのは、彼の――ロックの思いの強さだ。
 出ていって! と私は叫び、彼を拒否した。そしてそのまま、最後まで会うことはなかった。その私への期待――もしも目を開けることがあれば、死の間際に 思い出した彼の姿に、今度こそ微笑んで手をのばし、彼の名を唇が形作るのではないか、という期待。それだけを彼は捨てられないでいる。そして執着。秘石を 手に入れれば、それが実現するかもしれないと、心もとない情報を、生きる糧にするほどに握りしめてしまっている。
 ロックをつなぎ止めているのは、私の体だ。
 今にも目を覚ましそうな顔で眠っている、私の抜け殻だ。

「――レイチェル」
 ロックが、来た。
 彼は私の体に話しかけ、額に触れる。手に手を重ね、頬をなでる。そして指先で髪をすき、また話しかける。
 私はただ、ゆらゆら漂いながらそれを見ている。
 手をのばしても突き抜ける。彼に触れることはできない。自分の体にさわることもできない。
 私はここにいるのに。
 やわらかい砂色の髪にも、細い鼻梁にも、しっかりした骨の形がよくわかる、やや削げた頬にも、触れることはできない。
 そして私は――私の肉体がここに運ばれたときから、それだけが置いてあるこのうす暗い部屋から、出られない。
 それでも私の体は、ロックを私につなぎ止めている。

 もう、あの体なんかないほうがいい。彼はそれしか見ていない。あの肉体があるかぎり、私はロックに触れられない。そしてロックは私から離れてくれず、私はここから出られない。
 もう、いいよ。もういいから、私を離して。
 あんなものがなくても、彼は私を忘れないでいてくれる、きっと。私はそう信じる。
 だって、私は彼を信じるしかできないもの。私にはそれしかないもの。とびぬけた才能で身をたてることなんかできないし、目を引くような美しい容貌でもな い、彼に金銭的な援助をあげることもできない、ただの田舎娘の私。あの体がなくなれば、ロックの記憶の中で、私はどんどんきれいになれるだろう。
 わかっているのに。彼はもう私を恋しているわけではないと。だって私の体に話しかけるとき、顔も見ていないもの、キスもしないもの。……私だってそう よ、もういいの。もうロックに触れられたいとは思わない。もう、離してほしい。ただ、覚えていてくれればいいの。彼のこころの中の一番大切なものをしまう 場所に、ぜったいに消えないように。

「――レイチェル」
 また、ロックが来た。
 私のからっぽの肉体に、花を手向けるために。

 今回は、今までなかったことだけど、知らない人が一緒だった。
 りっぱな風采の男の人と、がっちりした大きな男の人、そして、
(その子は……だれ?)
 うらやましいくらいきれいな金色の髪をした、女の子が一緒だった。
 その子はすっきりと背が高くて、ふわりと透明な、硬質な感じで、私は羨望のまなざしを向けた。冒険の仲間だろうか、どこかの洞窟で見つけた友だろうか。剣を帯びているから、お菓子を焼いて恋人を待つような子じゃないのだろう。
 けど、その子が彼の背中を見つめている様子で、わかった。
 その子は、ロックに恋している。
 絶対に手に入らない美しいものを見る目で、彼の背中を見つめていたから。そして苦しそうに目を伏せたから。
 私はゆらゆら漂っていって、その子の顔をのぞき込んでみた。
 きつく引き結ばれた、淡い色の唇。青い青い――まだ浅い春の空の色の、目。かすかな光を反射して輝く髪。
 私が生きていたとき最後に見た人と、よく似た色だった。
 肺からのどに血が溢れだしてくる、いやな熱い感覚がよみがえった。



<記憶2>
 私は庭で、鉢植えに水をやっていました。
 つい今朝、気づいたのですが、その鉢から伸びた蕾は、今にも咲きそうな小さな、花びらの細そうな、白い花をいくつも開きかけていたのでした。
 なぜその苗が、私の部屋の窓際にあったのかは、私にはよく分かりません――おそらく、私の中で欠落している記憶の部分にかかわることなのではないでしょ うか――父は嫌悪の表情を浮かべて、「捨ててしまえ、そんなもの」と吐き捨てたのです。ですが、まだ咲いてもいない花の蕾を捨ててしまうなどかわいそう で、私はその鉢を、自分の部屋の出窓の下に置いておいたのでした。
 村はいつものように静かで、どこかで山羊が鳴いています。遠くの空から、鳶の声がかすかに降りてきました。
 不意に、生け垣がざっと鳴りました。
 振り返ると、この家の庭にはとうてい不似合いなもの――見たことのない形の鎧を身につけ、チョコボに騎乗した兵士が二人、垣根を崩して入ってくるところでした。
 ぞっとして、私は戸口に駆け寄ろうとしました。けれど、足が震えて動きません。
 二人の兵士は私を見て、こちらに近づいてきました。先に来た兵士がにやにやと私を見下ろすその視線が、私は怖くて怖くて、心臓が破裂しそうなほどで、身体が崩れ落ちそうなのを必死にこらえていました。
 すると兵士は、もう一人に向かって言いました。
「――見られたな。我々を」
 二人目の兵士は小柄で、まだ幼い声で答えました。
「――ああ、見られた」
「隠密行動を見られた」
「ひそかに北大陸の西岸に、上陸して」
「誰にも気づかれないよう、村を抜けて」
「山脈を越え、フィガロの背後へ」
「道を探すのを見られた」
 二人はゆっくりと、線対象の動きで私を見て――
 大きなほうの兵士がもう一人を見やり、私を指差しました。
「――この女を、殺せ」
 小柄な兵士は頷きます。
 チョコボから降り、剣を抜いて、私の胸元に突きつけ、そして私をまっすぐに見ました。
 鎧兜が包んでいる、まだ子供としか見えないその兵士の、青い青い――まだ浅い春の空の色の、目。淡い金色の髪が、頬のあたりにかかっていました。
 足は凍ったように動かず、声もあげられません。頭は熱く混乱し、心臓は口から飛び出すくらい脈をうっていました。何も考えられないまま、ただ、私はその兵士をぼんやりと眺め、きれいな色だ、と他人事のように思いました。
「……我々は誰にも見られてはいけないのだ。悪く、思うな」
 そして兵士は、手に力を込めました。
 ぐにゃり、と身体が異物に反発する感覚が胸郭に波打ち、高温の熱が私を貫きました。

 耳元で声が蘇りました。
「――約束だ。レイチェル」
(……だれ……?)
「この苗、おみやげ。レイチェルが水をやってくれたら、きっときれいに花が咲くから。俺、次のトレジャーハンティングは絶対、この花が咲くころには帰ってくるから。――約束だ」
(……ロッ…ク……)
 剣の先が、私の肺を突き抜けます。
 ごぼり、といやな水音が自分の中で響き、熱いものがのどを逆流してきました。
「もうすぐお前の……だからさ、一緒に……行こう」
(……あなたの、声)
「――守るから。行こう」
(ロック…!)
 あなたの、手。おおきな。温かい。あたたかな声。くれた。花の苗をくれた。私に。何もかも。教えてくれた、風の冷たさも、森の中の鳥の音も、草原のにおいも。……抱き合ったまま目覚める朝の、シーツの間から見上げた、窓から差し込む光のまぶしさも。
 みんな、思い出せた。あなたが教えてくれたこと、すべて。
 
 ――剣が私の中を通って、ずるりと抜け、離れていきます。
 私の血に染まった剣の柄頭に、薔薇のような透かし彫りが入っていることに、そのとき気づきました。
 血を吐きながら、全身をつぶされるような痛みと熱さは、ロックが私を抱いているときの熱さに似ている気がして、私は喜悦の表情を浮かべていたのでした。……



 ゆらゆら漂いながらのぞきこんだその子の目は、きれいな色だった。
 青い青い――まだ浅い春の空の色の、目。かすかな光を反射して輝く髪。きつく引き結ばれた、淡い色の唇。私は死の瞬間を思い出す。
 その唇がなにか言う、ロックは何か答える。
 けど私には、彼らの言葉が聞こえない。
 ロックはその子にほほえんで、また何か言う。その子は悲しそうに目を伏せて、何事かつぶやく。
 私には、その子がなんと言ったのかはわからない。
(ねえ、何を話してるの…?)
 私の声はとどかない。私の手は、彼にとどかない。
 そのとき、入り口の方がぐにゃりとゆがんだ。
(ロック、何か来るわ…!)
 私の声は届かない。
 けど、生きている彼らは、同時に話を止めて、瞬時に武器を構えた。
 ロックは、ナイフを。そしてあの子は、長剣を。薔薇の透かし彫りの入った、長剣を――
 彼らは階段を駆けあがっていった。

 目を見かわすときの、視線の重なり方で。先に飛び出して行ったあの子を追う、彼のその眼で。私は理解した。
 ロックはあの子を、愛おしく思い始めている。そしてどんどん惹かれている。
 ぞくり、とした。
 ……ああそうか、ロックはようやく、未来のことを考えられるようになったのだ。彼はきっともうすぐ、私を離してくれるだろう。
 いやだ。あの子の目の色は、髪の色は――いやだ、いやだいやだ。私はきっと、
 ――ロックに忘れられてしまう。

 だって、私は彼を信じて待っていることしかできないもの。私にはそれしかないもの。とびぬけた才能で身をたてることなんかできないし、目を引くような美しい容貌でもない、彼に金銭的な援助をあげることもできない、ただの田舎娘の私。彼が行きたいところの十分の一だって、私はとてもじゃないけど危なっかし くて一緒に行くことはできなかった。
 ずるい。
 ずるいずるいずるい。あの子はずるい。
 ひとめ見てわかった。あの子は、ロックの行きたい所へ、どこへでも一緒に歩いていける子だって。誰かに守られながらじゃないと村からも出られない私とは、ちがう。さらさらした金色の髪は、ロックの大好きなお日さまの光の色をもっているし、ただ立っているだけで、その眼は草原から見上げた空の色をしてい る。
 なのに。あの子は私のできないことがなんでもできるのに。なんでももっているのに。
 あの子は、それに気づいていない。そして、ロックがまだ私のものだと思って、恐れ、悲しんでいる。私に死の瞬間を思い出させ続ける、その不安げな表情が彼の視線を引きつけて、焼けつくような目をさせていることにも、気づいていない。
 ずるい。ずるいずるい。あの子はなんでももっているのに。ロックの心だって、もう手に入れているのに。
 なのに、あの子は――彼も、そう、ロックも、なんにもわかっていないなんて。
 あの子の思っているとおりに、彼の心がずっと私をいとおしんでいたなら……、私はとっくに行くべきところへ行けたはずだ。私は彼の中で、ずっときれいで いられたはずだ。どんどん乾いていく自分の体を見ながら、どうしようもできずにゆらゆら漂っているしかないなんて、それが死人にとってどんなにつらいこと か知らないなんて。
 私はじっと、唇を噛んでいた。

「――レイチェル」
 また、ロックが来た。
 今度は一人だった。からっぽの私の肉体に、こんどは何を与えにきたの?
 彼が何か言う、私は彼の言葉がわからない。
 聞こえない言葉をつぶやきながら彼は、何か赤く輝くものを私の手に握らせた。

 人ならぬものの声が響いた。
「――お前のあるべき場所に行くために、この世にケリをつけるのだ」
「――お前を送ってやれないでいる者に、お前を思い出にしてやるのだ」
「――私にはひびが入っている、もうすぐ私は死んで、魔石になるだろう。その少しの時間を、お前にやろう」……
 ……なら。それなら、私は、

 視界が、開ける。
 手を持ち上げようとしたが、力が入らない。声の出し方がよくわからない。目に映るロックの目が潤む。私を呼ぶ。
「レイチェル……!!」
 震える声が耳に届いた。手が握り締められる。私の持っている時間は、ごくわずか。
 ……なら、それなら、ただひたすらに私は、声をふりしぼって、ロックを、

「ロック……あいたかった、お話したかった……!」
 私を見下ろす彼から、一番きれいに見える笑顔をつくる。細く見える角度で手をのばす。……大丈夫、まだ、覚えている。あのころ、鏡に向かって毎日練習したようにすればいい。
「あのね……。私、しあわせだったのよ」
 身体が乾いていて、涙がうまく出ない。だけど泣いているように見せることくらい、簡単だ。
「死ぬとき、あなたを思い出して、」
 半分は本当。あなたを、全身全霊でいとおしく思った。自分の生きた記憶をこれですべて持って行ける、と思った。そのときは。
「とても幸せな気持ちで眠りについたの」
 半分は、うそ。私はずっと眠ってなんかいなかった。どんどんひからびたモノになっていく自分の体を見せ続けられていた。
 だから、わすれないで。あなたが私に何をくれたか、何をしたか。それを私はぜんぶ「喜んで」あげた心優しい子だって、ずうっと思っていればいい。
「……っ……!!」
 ロックは唇をかみしめる。手が、さらにきつく、私の手を握り締める。
 ……私は圧倒的に優位だ。
 言葉一つだけで、おそらく彼を殺せる。
 だから私は、最高にやさしい笑みを浮かべてみせ、じっと見つめて、はかなげな声で、ふるえる手を伸ばして、
 ――ただひたすらに、ロックを呪う。

「あなたに、言い忘れた言葉。――ありがとう」

 彼の茶色い目から感情があふれだし、薄い唇がわなないた。
 私の頬に手をのばす。声にならない声が喉からはしった。私の名を呼ぼうとする、肩が小さくふるえている。
 私は微笑を禁じ得なかった。
 きっとロックは――もう一生、私のことを忘れない。

 そろそろ時間切れだ。
 私は、私が一番きれいに見えるだろう笑みを唇に美しく残して、目を閉じた。