別館「滄ノ蒼」

caseB,Locke

<記憶3>
 聞いた話だ。
 その行商人は、海から近い小さな村が焼かれたとき、そこに逗留していたのだという。
 村の村長は口髭をたくわえた鷹揚な男で、彼の娘は、青みがかったやわらかい色の黒髪と大きな目の持ち主で、裁縫や花の世話がうまい穏やかな性格で――そして、俺のよく知っている娘だった。

 酒場で相席になった行商人が口に出したひょんな言葉を聞きとらえて、俺はそいつに話しかけたのだけど、何度訪ねたかわからないその村の話を聞いているうちに、血の気が引くことになった。
 村が襲われたのだという。
 それを聞いて、俺は思わず立ち上がりかけた。しかしそれは何カ月も前のことだと言われ、血が逆流するのを必死で抑えて座りなおした。けど、そのまま話の続きなんか、聞かなかった方がよかったのかもしれない。
 その娘が――納得いかないまま会えなくなってしまった彼女が、レイチェルが――襲撃者に殺される瞬間を、行商人は見ていたというのだ。
 そのまま呆然と俺は座りこんだまま、そいつが話すのを聞いていた。今思えば、行商人のほうもその話を誰かに吐き出したかったのだろう。泣きそうな顔をし て、声を震わせ、とぎれとぎれに、そいつは語った。気づいた時にはそいつはもういなくなっていて、ウイスキーの瓶とグラスだけが残っていた。俺もぐらぐら する視界と重たい足を引きずりながら酒場を出たのだった。
 うわごとのように繰り返しながら。無意識のうちに、コーリンゲンの方に足を向けながら。
「嘘だ……嘘だ、嘘だ! 嘘だ……、まさか、そんな……、嘘だ……!」
 聞いてしまった話を、別の話に塗り替えてしまうことができたらと、その時、生まれて初めて思った。

 ――聞いた話だ。
 行商人は、村長の家にあがって品物を広げていたのだという。
 村長の娘は庭に出て、蔦や薔薇の小枝を切ったり雑草を抜いたり、水をまいたりしていたらしい。
 彼女の足元には、白い小さな花を咲かせる草が、たくさん蕾をつけていたという。
 それを見やりながら、村長は、
「困ったものです。あんな花など、捨ててしまえばいいものを。あれを寄こした男のせいで、娘は消えない傷を負ったのに」
 などと言っていたそうだ。
 雑談しているうちに、不意に、何か不穏な、大きな音が外で響いたのだという。
 行商人も家主も、驚いて窓に駆け寄ったのだそうだ。もちろん娘も、鋏を置いて生垣の向こうを見に行ったのだという。
 二人が窓を開けると同時に、さらに耳障りな大きな音がしたそうだ。
 恐ろしげな、異様な形の、金属でできているらしき、大きな動く黒い機械のような獣のようなもの、それが生垣を崩して突っ込んでくる。それがまず目に映ったのだという。
 恐怖にしばられながら、唖然とそれを見ていると、不意にそれの動きが止まった。そして、ぽんと人がそこから飛び降りて、それで初めてその巨大なモノに人が乗っていたのだということを頭が認識した――行商人はそう語った。
 飛び降りたのは見たことのない鎧をまとった、子供のような小柄な兵士で、素早い身のこなしであっという間に生垣をまわり込み、娘を捕まえて武器を突きつけたのだという。
 当然、その父親は怒りの声を上げ、庭に飛び出して行った。だが兵士のほうが速かった、そいつは娘を立たせると、剣を突きつけたままなにか言ったようだっ た。何を言っているのかまでは、行商人のところにまでは聞こえなかったらしい。黒い異様な乗り物が、ごうごうと機械の唸るような大きな音を上げていたから だ。
 しかし他の家から火の手が上がったらしく、熱い空気が流れ込んできて、娘の叫ぶ声、そして村長の怒声が風とともに耳に届いたのだそうだ。
 娘は兵士の前に立ちふさがり、必死で叫んでいたのだという。
「ここに、……ここには、お願いです、入らないで! 花を踏まないでください!」
 あの穏やかな娘が、こんなに声を張り上げるとは、と行商人は驚く一方で、異様な事態にすっかりおびえ、身をすくめるばかりだったらしい。
 だからそいつが、続いて起こった事態に気を失ったのは当然といえば当然だった。
 地面の底から湧きあがってくるような機械の轟音と吹きわたる熱風の中、娘を下がらせようとした村長に負けず、彼女は地面をふみしめて両手を広げ、震える叫び声で懇願し続けた。
「ここに入らないで! お願い……!」
 続けて叫んだ一声が、彼女の最後の言葉だったという。
「――この花は大切な人にもらったのです!」
 娘の喉元に向かって、兵士の剣筋が走った。
 行商人は思わず目を閉じ、頭を抱えて身を伏せた。続いて上がった村長らしき叫び声を最後に、彼は意識を手放したのだという。



 一年ぶりにコーリンゲンに足を踏み入れたとき、ロックは吐き気を覚えた。
 数か月前に襲撃されたのだというその村は、表面的にはもうすでに、何もなかったかのような顔をしていたからだ。
 燃えたと聞いていた民家は、きれいに塗られた漆喰の壁を道沿いに見せていた。どこの畑も囲いも、荒らされた跡など残っていなかった。そして……レイチェ ルの家の庭も生垣も、きちんと整ったままだった。彼女にあげた白い花はきれいに庭に根付いて、いくつかがまだ細い花びらをゆらめかせていた。
 ただ、レイチェルと、彼女の父と、何人かの村人の姿が消えていた。
 ロックは何人かの知人に、村の襲撃のことを――レイチェルのことを聞いて回った。
 だが、どの村人も、口ごもって言葉を濁してしまうか、彼女は死んだらしいと言うものの詳しいことを知らないかで、不満と苛立ちがつのるばかりだった。
(レイチェル……レイチェル、どこだ? お前はやはり死んだのか……!? もう会えないのか、レイチェル!)
 飲まず食わずで、幽鬼のようにやつれた顔で歩きまわるロックを、顔見知りの一人はむりやり家に連れて帰った。そして水と酒と食物を採らせ、強いてベッドに押しこんだ。そして、言ったのだった。
「悲しみは、いつか忘れる。苦しみは、忘れられないと思っていても弱めることができる。そして記憶は……時とともにあいまいになり、塗り替えられる。お前には時間が必要なのだ」
 と。
 ……泥のように眠って目覚め、ロックはすこし落ち着くことができたようだった。
 顔見知りに謝辞を述べてその家を出、今度は意志をもって足を踏み出した。
(あれほど探しても見つけられない。……レイチェルは、やはり死んだのだろう。あいつを、探そう。墓があるなら参って、あいつを弔おう。誰にも弔われていなければ、塚を作って、蝋燭を灯して、俺が送ってやろう)
 彼女とは結局、言葉ひとつ、視線ひとつも交わせなくなったまま、二度と会うことができなくなってしまった。
 けれど、どんなに苦しいものであっても、記憶だけを抱いていられたのなら、ロックはきちんとレイチェルを彼岸に送り出せた。
 そのはずだった。
 村はずれの小さな民家を、ふとのぞきこんだりしなければ、そのはずだった。



 ――全く音のない地下室に響く音は、ロックがレイチェルに話しかける低めた声だけ。それすらも、ぴったり目を瞑った彼女には届いていないだろう。
 眠っているだけのようなレイチェルに話しかけ、額に触れる。手に手を重ね、頬をなでる。そして指先で髪をすき、また話しかける。その骸は、彼女の形をしているから、それだけで価値がある。
 けれどロックがコーリンゲンを訪れるごとに、恋人の形を保ったまま、「それ」は干上がっていくようだった。見るたびに肌が乾燥していったし、爪は色を失 い、目は落ちくぼんでいった。そしてロックは、その地下室から出てコーリンゲンを見渡すたびに吐き気をおぼえ、それは時を追うごとに強くなっていった。



 レイチェルを初めて仲間たちに見せた日も、襲い来る吐き気を、ロックは飲み込みながら歩いた。
 その日は雨が降っていた。やわらかい銀箭が、村全体を鈍い雨音の中に沈みこませていた。
 小さな地下室から宿に戻った後再度外に出て、道具屋でものぞこうと、ロックが歩いていた時だった。
「なんで、……」
 小さく聞こえたうめき声に、ロックは足を止めた。
 そっと、建物の隙間をのぞき見る。そこには金髪の少女が後ろ向きにしゃがみこんでいた。
 声をかけようとして、なんとなく止めた。壁の陰に背をつけて様子をうかがっていると、セリスの小さな嗚咽が漏れ聞こえ、続けて嘔吐する気配がした。
 ――正常な反応だ。
 ロックは他人事のようにそう思った。
 本来ならとうにこの世にないはずの人を、送り出すこともせず、肉体だけをいつまでも自分のもとに留め置いている――ともに旅をしている人間が、そんな常 軌を逸したことをずっとしている奴だなどと知ったなら、嫌悪を感じるのは当たり前のことだろう。頭がいやに冷静に、そう分析する。ぬるい雨が、雨具を伝っ てしたたりおちた。靴にしみこみ、爪先が湿る。
 落ち続ける雨を眺めながら、ロックは動けないでいると、セリスの細い声が、また耳に届いた。
「……なんで、この村なの……?」
 ざわ、と何かがよぎった。
 思わず壁の陰をのぞきこんだロックの目には、小さく震えるセリスの後ろ姿が映った。
 線の細い肩。そこにうちかかる白金の髪は雨にしっとりと濡れそぼっていて、淡く光って見える。無駄のない、背中から腰にかけてのライン。むき出しの二の腕が、魚の腹のように白く見えた。
 ……その瞬間、ロックは欲情した。
 か細く震えるその体をきつく抱きしめて、唇を這わせ、舌をふれて閉じこめて、彼女の体温のすべてを手に入れてしまいたい。荒れ狂うような衝動に突き上げられた。
 口元を押さえ、うつむいて拳を握り締める。雨は止まない。水気がしみこんでくる。
 ふりきるように、ロックは歩きだした。足音はたてずに、足跡一つその場には残さずに。ひたすらに交互に足を動かして、ただまっすぐに、そこから離れた。

 ――記憶は。
 ――この村での記憶は、歪む。

 冒険を一段落させるたびに、レイチェルに会いにきた。
 彼女の部屋は庭に面していて、その窓越しに、色々なものを差し出した。
 あるときは小さな柘榴石のついた首飾りを。あるときは細かな白い花弁をつける、草の苗を。
 ……いや、冒険譚や土産話とともに取り出してみせたそれは、すこし首をかしげて顔を輝かせながらレイチェルが受け取ってくれたそれらは、はたして何度、彼女に身につけられていただろうか?

 もう、
 もうレイチェルの温度も息づかいも、ロックは思い出せなくなっている。
 藍色に近い黒髪のやわらかさを思い起こそうとしても、いつの間にかそれは、日の光の色をふくんだ金色になる。伏せた睫毛の長さを思い出そうとしても、青い青い――まだ浅い春の空のような、目の色が浮かぶ。
 睨みつけるような、そのくせ不安げに揺れる、セリスの青い瞳が傍らにある。きつく結ばれた、そのくせ悲しみの言葉を紡ぎたくて仕方なさそうな、淡い色の 唇が、すぐ触れられそうな近くにある。白いうなじ、肩に流れて淡く光る髪、霧雨に溶けてしまいそうな立ち姿。それが、みずみずしくロックの目の前で、生き てそこにある。そのいずれもがひどく蟲惑的で、目をひかれて仕方がなかった。
 セリスは剣をふるう。
 堪えるような表情で、舞うように、自分の命を切り刻むように。
 そして駆けていく。ロックの後から少し歩いただけのコーリンゲンの村を、迷わずに抜ける。建物の裏や塀の間を、素早く走りぬける。
「なあ、セリス…もしかしてお前、この村に来たことあるのか?」
 そう問えば、セリスは苦い顔をして小さく答えた。
「この地方には、来たことがある。一度だけ」
「……、兵を率いて、か?」
 小さくうなずく。
 もしかして、もしかして……
「この村に……手をかけたのか」
「……どうだっただろうな」
「お前は……、もしかして、この村の人を……!?」
 唇をかみしめて、セリスはきびすを返してしまった。
 ロックは思わず顔を覆った。
 答えるはずもない。ひどいことを聞いてしまった。でも、聞かずにはいられなかった。
『「……なんで、この村なの……?」』
 あのつぶやきは、何。泣きながら吐いていた、彼女は何。

 ――記憶は、揺らぐ。改変される。
 行商人に聞いた話は、どこまで正確なものなのか、ロックにはわからない。同時に、レイチェルの笑い声も、目の色も、だんだんと記憶の中で胡乱になっている。ただ、人気のない地下室で乾いていくあの亡骸だけが、実態だった。
 もし、「幻の秘宝」を手に入れることができたなら、手に入れてしまったなら、レイチェルは彼の名を呼んで、微笑んでくれるだろうか。今度こそ微笑んで手 をのばし、彼の名を唇が形作るのではないか。せめてただ一度、目を見かわして微笑みあって、きちんと言葉を贈りあえたら、せめてそれができれば。その一瞬 だけを思い浮かべて、今やロックは「秘宝」を追っていた。
 甦りの効果が、もしも本当に、永続的なものだったら、自分はどうするのだろう。
 おそらくは、今度こそレイチェルを守り抜くために、彼女によりそうだろう。
 彼女にもう、恋してはいない。だが、愛せるようになりたいと思う。
 そしてその時、自分は心の何割かを殺すのだろう。
 
 ――世界の色が赤灰色に変わって、木々が葉を失っても、ロックは「秘宝」を探した。今度は、憑かれたように歩きまわるようになった。一方でセリスに似た後姿を目は探しながら、「秘宝」の情報をひとつひとつ手繰っていった。



         *



(あなたは)
(あなたは私の、たいせつなひとでした)
(だから……幸せになって。もう、私から自由になって)
(ありがとう、愛してくれて)
 フェニックスの崇高な気配が、レイチェルの亡骸を包み、一緒になって消えていく。俺は動けなかった。
 楔を、打ち込まれた。
(ありがとう、……ごめんな)
 ……お前は俺を許してくれたのだろうか。自分の執着だけで、お前の抜け殻だけをこの世に縛り付けた、俺を。
 お前はそれでも俺を許すのだろうか。こころの何割かを残しながら、のこりの半分以上で薔薇の剣に触れようとした、俺を。
 お前は俺を、許すといえるだろうか。俺の救いようのないこころの底を見ても。昏く汚れた疑念を抱いたまま、セリスにどうしようもなく惹かれているのだと知っても。
(ごめん、ごめんな、ごめん……)
 レイチェルが残していった、魔石を握り締める。振り切るように顔をそむけて、ようやく足が動いた。もう俺は、二度とこの地下室を訪れないだろう。
 階段をあがる。薄まばゆい光が目をうった。
 そろそろと瞼を開けると、そこには金色の薔薇が立っていた。
「……セリス?」
「ロック……どうして、」
 一人なの、と唇が動いた。
「大丈夫だ。レイチェルが……俺の心に光をくれた」
 ゆっくり見つめると、セリスはうつむいて、少し唇をかんだ。
「――行こう」
 俺はその手をつかんだ。
 ためらいがちにきゅっと握り返される手応えがして、体温がするりとなじんだ。
 レイチェルに打ち込まれた楔が疼く。行商人が語った話が思い起こされる。けれど記憶は歪んでいる。宿に向かって大股で歩きながら、ぼんやりと考える。うっすらと心もとない明るさが、赤く汚れた雲の隙間から降りそそいでいる。
『「……なんで、この村なの……?」』
 あのつぶやきは、何。泣きながら吐いていた、彼女は何。
 ――いつか、はっきりさせなければならないだろう。
 そのために。セリスを自分に縛りつけておくために、身も心も手に入れておくために、
 俺は自分を餌にした。

「セリス」
 ドアを閉める。振り返って、細い肩をつかむ。セリスは少しびくりとして、俺を見つめた。
「俺、お前が好きだ」
 茫然と見開かれる、春の空の色の目。愛おしさがこみあげる。抱き寄せたくなる。
「一緒に戦う仲間として以上に、好きだ。一緒に歩いてほしいんだ、……ずっと」
「……嘘……」
「本当だ」
「……うそ……だって、……」
「嘘じゃない。ずっと、お前を抱きしめたいと思ってた」
「うそよ……嘘! 一緒に行こうなんて、こんな私に言わないで! そんなことできるわけない、だって言ったじゃない、あのひとが心に光をくれたって! ……だったら、それができるのは、私じゃない……!」
「そうじゃない、俺は、お前が……!」
 衝動のままに俺は、おびえたように顔をそむけるセリスの唇をふさいだ。
 やわらかく湿った口唇が小さく震えている。肩を抱き寄せると、温かな身体はすくむ。角度を変えて、さらに深く口付ける。侵入する。口内を味わう。
「……やっ……!」
 セリスは泣きそうな顔で、俺から体を離そうとする。手首を捕まえ、さらに強く抱きしめた。やわらかく光る髪に顔をうずめる。
「……私は、……できないのに……、」
 まだあらがおうと弱弱しくわなないている、白い頬に、薄く朱のさした耳朶に、唇をよせた。ひどく、艶めかしい匂いがした。
 ――捕まえた。いや、捕まった。
 ずっと欲しかった。もう離せない。呑みこまれるしかない。
 そして俺の中で蠢く疑念は、ざわざわと、ざわざわと、暗く体の中を覆った。
 そのどす黒い感覚が、セリスの肌を、唇を、もっと甘くした。
 俺は服の隙間に手をすべりこませ、なめらかな背と胸を探った。体温のすべてをこの腕の中に閉じ込め、みずみずしい唇に唇で覆いかぶさり、温かな内部を犯しながら、俺は――セリスに溺れた。