別館「滄ノ蒼」

caseC,Celes

(あなたは)
(あなたは私の、かけがえのないひとです)
 ――それでも私の体はいまだに、その人を捕まえられないでいる。

 私は闇の中で漂っている。
 星明かりだけがさしこむ暖かな夜の部屋に、いつもロックは訪れてきて、そして私を抱きしめる。
 私は彼におぼれている。彼は私におぼれている。
 透明な黒藍色に染まった彼の目を見つめると、同じように夜の色に染まっているのだろう私の目を強く見つめ返して、額に触れて、また抱き寄せてくれる。す ると体温は少し高い彼の温度にするりと同化し、私はうっとりと目を閉じる。手をのばせば彼のさらりとした髪を心地よく撫でることができる。肌の感触も絡ま る指の長さも、どうしてこんなになじむんだろうと思うほどだ。
 服の裾から熱い手が忍び込んできて、胸元に硬い指先が触れ、這い上がる。私の体は、勝手に反応する。
「……んっ……」
 声が漏れる。足から力が抜けそうになる。こらえながらそっと目を開ければ、にじんだ視界にはロックの切なげな表情がある。胸がいっぱいになって、首に腕をまわし、唇を求めずにはいられない。
 次に目を開けた時には、けれど、ロックは底を探るような暗い視線を私に向けている。愛おしくて仕方ないのに、値踏みするような冷たさを同時にはらんでいるような、そんな視線を。
 そんな顔すらロックのものなら恋しくて、私はもっと、彼が欲しくなる。
 ……いまだに、全くロックを手に入れた気がしない。
 私は彼におぼれている。彼は私におぼれている。触れ合わずにいられない、指先ひとつで体内の熱は最高温度まで上がり、どくどく脈をうつ。……けど。だけど。
 私の首すじに顔を埋め、腰を抱いて、髪をなでる。肌をさぐり、鎖骨に舌を這わせ、脚の間に手をのばしかけて――ロックの熱い手はおびえたように、そこで止まる。そしてまた、きつくきつく、私を抱きしめる。
 気づいている。気づいている。
 いくら私だけをみてほしくても、どうしたって無理だ。
 だってあのとき、あの藍色の眠り姫が、おそらく彼の半分以上をつれていってしまったから。

 死者にはナイフを抱かせておかなければならない。なぜならそうしなければ、かれはこの世の縁を絶つことができず、自分の行くべきところに親しい人をつれ ていくからだ。そんな慣習が、ベクタにはあった。戦死した兵士であってもできるだけ遺体の一部を持ち帰り、剣や短剣を添えて弔う。死者と生者を峻別するた めに、必ずそうするものなのだ。
 あの地下室で見た彼女は、ナイフを手にしていなかった。だからロックを連れていったのだ。

 ……そんなことは、言い訳にすぎない。そんなわけはない。口に出してどうなるものでもない。
 彼はひたすらに、小さくつぶやきながら私を抱きしめる。
「もう、……もう、失いたくない」
「もう二度と、この手を離さない」
「お前のこの肌は、なんて甘い匂いがするんだろう」
「お前のこの唇は、なんて柔らかくて美味いんだろう」
「もう絶対に、離さない」
 そして、私たちは闇に飲みこまれる。言葉を失い、ただ求めあう。
 けれど彼の心はいまだに、あのひとに捕まっている。
 ……ずるい。
 あのひとはずるい。
 きれいになる一方の思い出になってしまったひとになど、勝てるわけがない。力を与えてくれて、背中まで押して希望になってくれた、圧倒的な愛情を示してくれたひとなど、こころのなかのいちばん大切な場所にずっと生き続けるに決まっている。
 だから私は、彼の残された何割かにしがみついて、せめてそのすべてを奪おうとあがくしかない。
 背徳感に似た暗い喜びが、恋しい思いをさらに強くする。そしてロックは、底光りする冷たい目をまた私に向けて、荒っぽく唇を合わせ、口内に侵入してきた。
 気づいている。気づいている。
 あのとき私を襲った「もしかして」に、彼もきっと気づいている。

(あなたは)
(あなたは私の、たいせつなひとなのです)
 ――それでも彼の心はいまだに、あのひとに捕まえられている。



        *



 コーリンゲンの宿で仲間と別れ、自室に入った瞬間、吐き気をもよおした。
 私は口元を押さえ、足を忍ばせて外に出て、建物の陰にもぐりこんだ。
 しゃがみこんだとたんに吐き気は耐え難くのどを逆流し、何度ももどした。吐瀉物はすぐに、雨に流れていった。初めて見た、ロックの思い人の姿を思い浮かべ、私は吐き続けた。
 屍に驚いたのではない。人間の遺体など見慣れたものだった。非戦闘員の男や女や子供を手にかけたことだって、何度あったかしれない。剣が血に染まるたび に、冷気の魔法を放つたびに、それらが食い込んでいった肉体の持ち主の顔など、努めてすぐに忘れた。そしてまた、新しい死体を作った。そんなことが、軍人 であった間に何度あったのか――私はもう、覚えていない。
 けど。ここは。ロックの恋人が眠り続けている、この場所は、どうしてよりによって、

「なんで、この村なの……!?」

 初めて、この大陸に降りたって駆けたときに、最初に寄った村だった。最初に剣をふるった場所だった。
 いやな記憶の、糸口だった。
 あのときも確か、うっすらと雨が降っていた。薄く立ちのぼる煙と同じ色の空がゆらゆらと漂っていた。頬に当たる風は、冷たかった。
 それなら。――だったら、
 あの藍色のひとも、もしかしたら、私が斬った人たちの中にいたのかもしれない。
 だったら。そうだったのなら、いっそ――
 服装の見分けがつかないほど
 顔も分からないほど
 死体のかけらも残らないほどに、
 ――……徹底的に、殺してやればよかった。

 抑えても抑えても湧きあがってくる恐ろしい考えに、さらに吐き気が込み上げた。
 汚い自分。どろどろの心。人として考えてはいけないことだ。しかも、失礼極まりない。傍から見ればまるで、ロックが彼女の身体を大事に取っておいたことに対して嫌悪感をあらわにしているみたいに見えるだろう。
 私を襲った「もしかして」は、誰にも言えるはずがない。だめだ、しゃんとしないと。流れ落ちる涙を止めて、吐き気など止めて、頭をクリアにしないと。立ち上がって、胸を張って、せめて彼の真摯な思いに寄り添って、また戦いに赴かないと。
 そう思いながら私はどうしても立ち上がることができず、また嘔吐した。



<記憶1>
 騎乗している位置から見下ろす村の景色というものは、何度見てもみすぼらしく思える。
 乗り物が地響きをひとつたてるたびに、山羊や鶏が鳴き声をあげて騒ぎ回る。村人が飛び退き、おびえた表情を顔に貼りつけ、頭を抱えて走り去る。振り返れば、この村のすみで小さく燃えている小屋があるのだろう。薄い色の煙がひとすじ、立ち上っていた。
 セリスはチョコボの手綱をにぎって、少しの間、辺りを見渡していた。
 そこは村の中央を貫く道なのだろう。ふみ固められた土のわきには、ひょろひょろした草が伸びている。ベクタの、完璧に舗装された石畳と鉄柱でできた街の 風景の中でいつも暮らしているセリスにとっては、野趣あふれる場所だった――というと聞こえはいいが、そこらの野原とそう変わらず、彼女は特に何の感慨も 覚えなかった。異質なもの、鉄と石と機械に飲み込まれ、文明化され、整備されてしかるべきものだった。
 羽毛をなで、帝国の紋章が入った鞍を軽く叩き、鐙を踏みしめる。チョコボはすぐにセリスの意志をくみ取り、ゆっくりと走り出した。

 ひそかに受けた命令はこうだった。
「フィガロ領の片隅に威嚇を与えよ――あくまでも威嚇を、与えよ。空き屋のひとつも燃やして混乱を生ぜしめ、村人どもが騒ぐ間を縫って平野を駆け抜け、山脈を越えてフィガロ本領に至る道筋を探って来るべし。兵力を気取られては、ならない」
 ……伝達兵は、剣の稽古中だったセリスのところにやってきて、要点のみの口上を述べ、彼女の階級章に星を一つ増やして去ったのだった。
 次の日の明け方にはもう、セリスは兵士をともなって、アルブルグに向かっていた。
 北大陸の西岸に上陸してから、かれらはまず、人より羊のほうが倍も多いような小さな村をみつけ、旅人のふりをして保存食を補給し、情報を得た。ひとつ南 の村が、規模といい位置といいフィガロに少しの揺さぶりをかけるのに適当だと結論付け、この村の近くまで来て野営し、様子をうかがうことにしたのだった。

 空家の壁を崩す。なにも置いてない納屋に火種を投げ込む。鳥小屋を壊して、鶏を四方に追い散らす。村人に気づかれないよう、混乱の種をまいていく。その 成果は着々とあがりつつあった。窓から人が身をのりだしてあたりを見回している。羊や馬が、落ちつかない鳴き声をあげはじめる。
 味方はセリス自身を含め、たった二人。その二人――しかも、一人はまだ子供といっていい年齢の、自分だ――に、この村は恐慌を起こし、大軍が攻めてきた と勘違いし、おそれ、まどっている。縦横に村の道を駆けながら、こちらが二人しかいないことを気づかれぬように、かつなるべく大きな混乱が起こるように、 種をまいていく。
 適当なところで、味方と合流した。
 ただ一人の彼女の部下は、二十代の半ばだろうか、軍曹の階級章をつけていた。彼はチョコボを上官に寄せると、淡々と言った。
「そろそろ、フィガロの駐屯地に一報が届いている頃でしょうな。どのくらい迅速に兵士がやってくるかで、この地をフィガロがどう思っているかがわかる、そ してフィガロの機動力がどの程度か、敵の兵力をどの程度正確に見定める力量があるか、――いろいろなことがわかるでしょう」
 村の出入口に向かってゆるく並走しながら、セリスは指揮官として返した。
「ああ。最も西の海に近いこの地に、フィガロがどれほどの警戒態勢をしいているか、わが皇帝に申し上げる絶好の機会だ。……今のところ、大したこともなさそうだな。それはそれでいい、かの国はおとなしく砂漠だけを守っていれば良いものを――」

 そこまで言って、二人は言葉を止めた。
 大したことない、なんてことはなかったのだ。

 地面がうなりをあげた。
 50や60ではきかないであろうチョコボ騎兵の砂煙が、はるか海のほうからこちらにせまってきていた。
「――まずい、逃げるぞ!」
「逃げる、ではなく、転進、あるいは戦略的撤退というのですよ、セリス・シェール中尉!」
 手綱をさばき、チョコボの首を返した。一気に村の奥側に向かって走る。その間にも、敵のチョコボの足音は村に迫ってくる。
 村のもっとも奥と思われる民家を、裏側に回りこんだ。
 そこには十数人の村人が集まっていた。おびえたようにざわめく。何人かは、驚きの色を憎しみの目に変えて、逃がすもんか、と鎌や斧を握りしめたようだった。
 二人は手綱を引く。……ほかの道はないか。魔法か何かで威嚇して道をあけさせるか。一瞬、迷った。
 そのとき、一人の女性が――年の頃は二十歳前だろうか、青みがかった黒い髪の少女が、手を広げて立ちはだかった。
「この道は通らないで! ……踏み荒らさないでください、花を植えてあるのです、お願い!」
 ……建物の陰に、何人かの子どもの気配がしていた。
 フィガロ騎兵は、もう村の入り口から100歩ほどのところまで迫っている。
「――……、突破する!」
「はっ! 先に参ります、ついて来てください、中尉!」
 軍曹は一声叫んで剣を抜き、チョコボのわき腹を蹴った。
 セリスもまた、武器をふるいながら逃げまどう人々の真ん中を駆け抜け、森に入り、二人は砂漠を横切る道なき道へ向かった。

 ――帝国兵2名は、無傷。死傷者十数人の被害が、フィガロ領片隅の、小さな農村に残された。