別館「滄ノ蒼」

3,タピストリ

 琺瑯鍋は、ずしりと重い。
 十数人分の肉と香菜の煮込みが九分目までつまったそれを、マッシュは肩の上に抱えあげ、平然とした顔のまま、すいすい歩いていく。
 広い背中の陰。礫石だらけの赤暗い砂を踏みしめていく彼の足どりを見失わないように、ティナは後ろから小さく駆けていた。
 ざり、ざり、と、二人が歩を進めるたびに、足元で小石が音をたててころがる。
「マッシュ、そっちじゃないわ。あの家よ」
 さびれた村の、奥手まで歩を進めようとしていたモンクを呼び止める。「お、そうか」と言いながらきびすを返したマッシュを、こんどはティナが先導して、厚い木製扉の前に立った。
 脇の壁からつきだした装飾的な金属棒に、黒ずんだ木板が下がっている。半分とれかけたその看板には、未だなんとか「宅配便」の文字が見てとれた。さびついたノッカーを動かすと、ノック音がからからと鳴った。
 住人たちが出てくるのを待つ間、ティナはなんとなしに振り返って空を見やった。
 いつもと変わらない、赤黴色の雲が遠く小さくうなっている。昼がもっとも短いはずの今の時期ではあるが、太陽がすでに傾いているだろうことすら注意しなければわからないほど、その光は弱々しい。
 やがてノブががちゃがちゃと動いて、住人たちが文字通り転がり出てきた。
「――ママ!」
「ママだ!」
「ティナママ!」
 あっという間に子供たちに取り囲まれてしまったティナの前に、ややあって、穏やかな笑みをうかべた少女が顔を出す。
「いらっしゃい、ティナ」
「こんにちは。お邪魔するわ、カタリーナ」
 
 
 
        §
 
 
 
 マッシュは鍋を台所におろしたところで辞去を述べるつもりでいた。
 だが、子供たちが次々とびかかってぶら下がってしまったため、外で彼らをかまうことにしたらしい。男の子たちを振り回してやったり女の子たちを肩車してやったりしている様子で、窓の向こうから歓声と笑い声が漏れ聞こえてくる。
 
 いくつも並んだ小さなベッドのひとつに、カタリーナは腰を下ろした。
 目立ち始めた腹部をかかえてゆっくりと体を落ち着ける動作は、以前と比べればやはり大儀そうだ。
「カタリーナ、赤ちゃんは元気なのね?」
「ええ。中からずいぶんおなかを蹴るのよ、痛いくらい」
 部屋は薄暗い。カタリーナは手元にランプを引き寄せ、火を入れた。スカートの裾を整えると、ティナを見上げて微笑んだ。
 ランプの色は、油の質が良くないのか、どうも頼りない。ちらちら揺れる黄色い光は、テーブルの上の布のかたまりをはっきりと照らし出せない程度の強さだ。それはどうやら、縫いかけらしき端切れらしい。
「お料理のお裾分けありがとう、ティナ。小さな子があれだけいるでしょう? もうすぐ冬至のお祝いだっていうのに食べられるものが少なくて……残念に思っていたの」
「肉と香菜を三日ほど煮込んだの。ハーブがたくさん入っているから二週間くらい持つし、香辛料は控えてあるからマギーやアレクも食べられると思うわ」
「ママからの贈り物ね。みんな喜ぶわ」
「赤ちゃんの分もあるんだから、あなたもたくさん食べてね、カタリーナ」
「ありがとう」
 カタリーナは微笑んで、腹をなでた。
 ――そうだ、そういえばティナママに言わなきゃいけないことがあったのよ。ね、赤ちゃん、何だったかしらね?
 小さく話しかけると、「そうそう」とつぶやいてティナを見上げる。
「あのね、ティナ」
 テーブルの上の端切れをとり、まっすぐティナに向かって突き出すと、カタリーナは言った。
「これ、一針さしてもらえないかしら」
「なあに、これ? 天使が花を抱えて降りてくる図柄が刺繍してある、みたいだけど……」
「冬至の祝日に、小さいけどタペストリーを飾ろうと思って。みんなの見えるところにかけるものだから、ティナにもお願いしたかったの」
「いいわね。素敵だわ」
 ティナは布を受け取ると、ゆっくりと慎重に、いくつか雪の結晶を縫いとってやった。
「ありがとう」
 満足そうに端切れを広げて眺めると、カタリーナは再度、腹をなでて低く話しかける。
「冬が、来るわ。今年の冬は、きっと厳しそう。でもママはみんなを、あなたを、見守ってくれてるわ……ママがお留守の間は、せめてお姉ちゃんとお兄ちゃんががんばらないとね。がんばる……からね」
 ランプの光が、小さく揺らめいた。
 窓の外からまた、かすかな子供の歓声が聞こえてくる。
「カタリーナ」
 たおやかな翠色が揺らめいて、少女の張った腹部に手を近づけた。
「わかってるのよ、ティナ。ティナは……ママはがんばってるから。戦ってるから。この子が生まれてくる世界が緑で満ちているように、守ってくれてるから。……だからティナは今、ここにいないんだって、そうわかってるのに」
 抑えた声を絞り出した少女は、ティナの手の上から自らの腹に手を当てる。
「わかってるのに。けどティナはこの村にいない。遠いところで戦ってる。この村の子のために。この子のために。――だけど、ティナが戦い抜いても、ずっと この村に花の芽が出ないままだったらどうしよう。この子が生まれてきても、ティナがここにいなくって、この村の空がずっと暗いままだったらどうしよう、っ て。そんな空をこの子が嫌がって出てこなかったらどうしよう、って。思ってしまうの」
 カタリーナの片手は、膝の上で先ほどの端切れを握りしめた。
「生まれてきたこの世界の様子に絶望して泣いてばかりの赤ちゃんだったらどうしようって、寝ても覚めてもそんなことを思ってしまうの……」
 ティナはうつむいた少女をじっと見つめると、その横にひざまづき、温かく息づく腹部に頬をあてて目を閉じた。
「……この子は、赤ちゃんは、すっかりあなたの心を盗んでしまったのね。カタリーナ」
 静かに発せられた言葉は、迷いなく、そしてゆるぎなかった。
「どんどん大きくなる命が、ここにいるんだもの。お腹の中で赤ちゃんを育てているんだもの。赤ちゃんが悲しい思いをしたらいやだって、そう思うのはきっと、正しいの。だからちゃんと、この子を守っていられるの」
 ゆっくりと腹部をなでる。いつもひやりとしているティナの手は、命の温度になじんで熱くなっていった。
「あなたは温かいわ。生きてる、がんばってる。赤ちゃんも元気で、生まれてこようとしてる。だから、わたしも……がんばれるのよ。命は明るい空の下ではぐくまれなくちゃいけないと思うから」
 ランプの黄色い光が再度、揺らめいた。壁に映った二人の少女の影も、幾重にも重なって動く。
「もしかしたらわたしも、赤ちゃんに心を盗まれてしまったのかも」
 翠の少女は、笑って顔を上げた。
「生まれてきたこの子に会うために、みんなの未来を守って必ず帰ってこなきゃ、って。今、心の底から思ったわ」
 それを聞いたカタリーナは破顔した。しばしの間、小さく笑う。閉じた目尻からひとすじ、涙がこぼれおちた。
「――不吉なことを言ってごめんなさい、ティナ。お願い、しますね。……大変なのに、来てくれてありがとう」
 気づけば外はすっかり日が落ちている様子で、子供たちの歓声は窓の向こうから消え去っていた。かわりに出入り口の方から、食事のメニューを問いあうような声が飛び交う気配がし始めている。
 小さな子供たちの、夕餉の時刻が迫っていた。
「そろそろおいとましなきゃ。……元気でね、カタリーナ、赤ちゃん」
 再び彼女の腹部に頬を触れた翠の髪をなで、その頭を抱きしめて、カタリーナは言った。
 
「――行ってらっしゃい、ティナ」