別館「滄ノ蒼」

Traveler's Moon


 ゆらり、と、意識が急激に浮上した。
「……ん……、」
 セリスは寝返りをうって、目を開ける。枕だろう、耳元でかさりと布が鳴った。ぴんとして清潔で、無機質な肌触りがする。
 上瞼と下瞼を、ゆっくり引きはがしていく。
 視界に映ったのは、窓枠。硝子板の向こうの、白くかがやく丸いもの。
 満月だった。
 巨きくて限界まで太って、しらじらとつめたく、容赦なくあかるく、平然としてそこにあった。
 でも。
 ……何だろう。何か違う。
 セリスはぼんやりと、乳白色の円盤をみつめた。

 さっき魔導研究所に入り際、見上げた空には、今と同じように月がでていた。
 それははっきりと覚えている。
 黒々としたシルエットになった、赤茶色の壁の無機質な、大きな建物の端に、白くつめたく超然とあかるく、月がかかっていたのだ。
 だが、これは違う。あの月は、まだ左側が少し欠けていて暗かったはずだ。なんとなく眺めていたら肩を叩かれて、振り返った。視線の先にいたのは、いちばん声をかけて励ましてほしかったひとだった。十三夜と呼ぶのだと、あのひとはつぶやいて、笑ってこちらを振り向いて、「行くか」と、――

「――……っ!」

 セリスは跳ね起き、こめかみに走った痛みに背を丸めた。窓の外は、満月。清冽な光に満たされた夜の底に闇がこごって、金属フレームのベッドの周りを埋めている。
 床はリノリウムだ。きゅ、とかすかに鳴る音には、嫌になるほど覚えがあった。きゅ、きゅ、と足音が響いて近づいてくるにつれ、空気が静かにかき回される。丸っこい人影は立ち止まるとセリスの上にかがみこみ、少しためらったように声をかけてくるのだーー

「セリス、目を覚ましたかい……」
「……はかせ」

 頭が重い。ぐらぐらする。顔を上げられず、それでも見慣れた黄色い実験着の裾が、闇の中でも薄ぼんやりと見えた。

「よかった……セリスや。2日も眠っていたんじゃよ」
「2日……2日!? そんなに、私……!」

 一気に現実が流れ込んでくる。
 すべてが夢の中のようだった。
 耳によみがえる。甲甲と響きわたる金属管の音、コンベアの音、モーターの駆動音。目の前にあった。白々しい灯火の色、暗い色の壁、蒸気。あまりにたくさんの無機物であふれていた。周囲には数個小隊の兵士と仲間たちと、思い出すにも忌々しい白面とが居て、物言わぬ幻獣たちのおびただしい気配が満ちていた。
 なのに自分が認識していたのは、疑念と怒りと逡巡とが拮抗しながら投げかけられた、茶色の視線だけだったのだ。

「……つ……!」

 くらり、視界がぶれた。
 シドの手が、肩を押しとどめる。鼻先にカップが差し出された。目元に当たった湯気は、温かくて少し甘い匂いがする。すがりつくようにカップを手で包むと、懐かしいハーブの香りがした。ああこれは、博士がいつも研究室の隅に逆さに干してある、あの草の束だ――

「飲んで、落ち着きなさい。お前の好きな、いつものお茶じゃよ」
「いつも、の、」
「そう。いつもの」

 ああ、と声を漏らし、セリスは言われるまま、手を持ち上げた。
 記憶の中のあのころと全く変わらない、甘くて青臭い、澄んだ色の液体が唇にふれる。

「お前はずっと、最初にこれを飲んだ時からお気に入りだったのぉ。比較的苦くもすっぱくもない葉じゃから、飲みやすかったんだろうなぁ」
「うん、そうだった……そうだったわ。他のものより鼻につく匂いがしなくて、甘いと思ったの」
「そうか。お前はよくこの草の世話をしてくれていたものじゃな……蜂蜜が欲しかったら、言うといい」
「……はい、シド」

 熱い茶を、ゆるりと喉に滑りおとす。
 そうしてはじめて、セリスは自分がすこし震えていたことに気づいた。
 ほ、と息を吐く。

「それにしても、危ないことをするもんじゃ。……テレポを唱えるなんて、お前まで変なところにとばされたらどうするつもりだったんだ」
「……私、……なにも考えてなかった。夢中で……」
「テレポは相性が良くなかっただろう、忘れたのかい。皆を移動させるだけなら、落ち着いて指示を出しても良かったはずじゃろう」
「だって、……だって、どうしたら良かったの……!」
「とにかく」

 手元からまるいカップが離れた。やわらかく肩を押され、頭部が枕に戻される。額に、かさついたしわの多い手が乗せられた。
 暖かくて硬い、ペン胼胝のできた、剣を持たない研究者の手だ。袖口のすぼまった筒袖は、何かの薬品と機械部品と、かすかな温室の植物のけはいがする。
 なぜか、小さなセリスだったころに戻ったような気がして、涙が出た。
 思い出すのは、体調を崩して布団のあいだに埋もれている平日の昼間の、幸せなうしろめたさだ。うすきんいろの陽の光が薄曇りの空から漏れ出してきて掛け布団の上に落ち、ぬくぬくと内部をあたためていた。遠く低く、ごうごうと帝国城の動力音が響き、硝子越しの白っぽい空を見上げながら、うとうとと眠りにいざなわれたものだった。
 シドの手は、あのころと変わらずセリスをなでる。

「今は眠りなさい、セリス。体力を回復しなければ」
「私……、」
「悪いようには、ならんよ。皇帝陛下はきちんとおまえのことを考えてくださるだろう。御心のままに、従えば良い」
「……そう」

 そうだと、いいけれど。
 セリスは片腕を持ち上げ、目元を覆った。
 シドの声に無条件に安心してしまいそうな理性を必死に殴りつけ、毛布に潜り込もうとするちいさな自分を叱咤する。目は閉じたままだ。
 ――考えろ、考えろ、分析しろ。
 仲間を守るために。彼を守るために。自分を守るために。
 タイムリミットはすぐだ。おそらく、次にセリスが目覚めた時だろう。それまでに考えておかなければ。自分に何ができるかを。
 きっと仲間たちは脱出しただろう。ひとり帝国に――しかも城内に残ったセリスは、何ができる。何が妨げになる。考えられる処分は、何だ。
 シドの言葉から推測すると、どうやらセリスはリターナーを探るためにベクタを離れていたことになっている、のだろう。それをシドなどは疑いもしていないようだし、ケフカが率いていた下級兵などの反応を思い起こしてみれば、裏切り者に対する疑いの気配は薄く、セリスへの賛美の雰囲気すらうかがえた。
 ……つまり問題は、皇帝や帝国軍部の幹部クラスがセリスをどうするか、か。
 彼らは実情を知っている。セリスが反逆の意を示したことも、リターナー側の戦力として帝国兵と剣を交えたことも。
 おそらく最低でも更迭は免れないだろう。軽くて所属変更、悪ければ処刑――だろうか。
 ただ、今のセリスは繋がれたり牢に入れられたりはしていないし、無理に叩き起こされてもいない。
 だからおそらく「罪人」ではない、のだ。今のところは。希望的観測かもしれないけど。

 ……
 思考は、そこで止まった。
 どうにも考えがまとまらない。ぼんやりしている。それに、考えようとしてもどうにも手掛かりが少ない、ような気がする。……いまだ、体は睡眠を要求しているのだ、素直に身を預けてしまおうか。
 目の上にのせた指のすきまから、白いつめたい光が射しこんでくる。視界から光を遮るような体勢であるのに、月の光はどうあっても目の奥まで忍び込んでくるのだ。
「――眠りなさい、セリス」
 もう一度、額の生え際を、かさついた皴の多い手がそっと、撫でていく。
 瞼の際が、じわりと熱い。

 きゅ、きゅ、と。聞きなれた足音がリノリウムに響いて、遠ざかって行った。
 しばしあって、カチリと外から鍵のかかる音がして――セリスはちいさく、笑った。
 つまりはそういうことなのだろう。
 開いていたたくさんのドアの内のいくつかが、ぱたりと閉じた。そんな幻を見たような気がした。


 月がみている。まん丸な月が、切ないほどくっきりと、夜空を鋭く白く切り取っている。
 窓越しの月は、動かない。いくら見つめても。しんと静謐に、かちりと止まっている。しらじらとつめたく、容赦なくあかるく、平然としてそこにある。
 目元に重ねていた手をはずし、頭を持ち上げようとすると、ぐらり、と視界が暗くなった。
(月が、みている)
 私をみている。たったひとりでいる、私をみている。
(……おねがい)
 仲間たちも――彼も、今日はこの月を見上げているのなら。
 満月は私よりも、彼をみつめていてほしい。



「旅人を、見守る月なんだ。これ」
 そう教えてくれた、明るい声。青い闇の中に、彼の背中はまっすぐに在り、空をみあげていた。
「ものすごく明るいだろ? ランタンなんか持ち歩く必要はないし、これだけ明るければ、野獣も野盗も、そうそう物陰から出てはこないってこと」
 振り返って、笑う。光すくなく暗く沈んだ夜の中でも、その目はやわらかな茶色に輝いていた。
「知ってた?」
 しらなかった。そう小さく返して足を早め、セリスは彼の隣に並んだ。
 ジャケットの裾に、そっとつかまろうかと思ったけど、そうする勇気は出なかった。

 そう、しておけばよかったのかも、しれない。
 夜だから、青い闇の中だから、月しか見ていないから、この程度のささやかな。そう言い訳して、しまえばよかったのかも――しれない。



 旅人を見守るのだという、長い夜を明るく照らす満月は、彼にふさわしい名前だ。そう思う。

(おねがい、無事でいて……)

 手を合わせ、祈った。なにかに。
 それはきっと、神などではなく、誰かでもなく、況や皇帝などでは決してなかった。
 けれど、神でも英雄でも霊木でもないなにかに、すがりついた。

 満月は、千年前から変わらず在ったかのような顔で、そこにある。
 巨きくて限界まで太って、しらじらとつめたく、容赦なくあかるく、平然としてそこにある。

 静かに涙をこぼしながら、閉じた瞼越しに、白い光をみつめていた。