別館「滄ノ蒼」

Rosa Celeste



 瓦礫の塔の跡地には、あいかわらず何かわからないものが積みあがっているのだという。
 人々は、忌まわしい記憶の主が座していた痕跡地を、おそるおそる遠巻きに眺めているが、ときどきそっと近づいてきて、めぼしい資材をかすめて持っていくのだそうだ。金属の管だとか歯車だとか、そういったものを。
 ごたごたと積みあがった瓦礫の隙間のところどころから、それでも種は芽吹き、花を咲かせるようになった。
 それはどこか遠くから風に運ばれてきたのかもしれないし、もしかしたら瓦礫の内部にひっそり埋もれていたものかもしれないのだった。

 春雨の滴る、しずかな音が響く。
 淡い白灰色の空から大地に向かって、まっすぐに、見えないほどの細かい滴がほそい線を引いている。
 今の季節には、その着地点の一つ二つに、白いちいさな花のゆれるけはいが窺える。なんとかという名の、ごくありふれた雑草――だった。世界が壊れる、その前までは。
 ようやく世界中の野原に下草が繁茂し、木枝が伸び始めた。名もなき小さな花が、そのままに打ち捨てられるようになったのはごく最近のことだ。世界が赤黒い空のままであったなら、ひとびとは「裁きの光」やこの塔のまがまがしさにおびえながらも、足場の悪い瓦礫をよじのぼり、わずかな葉緑素を必死に摘み取っていったことだろう。
 今は、つるりとした緑色がぴんぴんと跳ねて、軽くしずかな湿り気を受けとめていた。
 あたりに人の気配はない。近づく者はいないのである。
 そのため、チョコボの背からは、じっくりと塔の全容を眺めることができた。
 手綱を引いて、隣のチョコボにすこし寄せる。禽は、ごく軽く嘶いて身体を横に大きく揺らしながら、セリスの意志に従った。
 あたたかな手が伸びてきて、彼女の髪にふれていく。

「――登る?」
「……ううん」

 言葉は、それだけだ。
 けれど、互いの言いたいことは、十分に伝わるのだった。それだけ積み重ねてきたやりとりと、ともに行動してきた時間が、今のふたりにはある。

「見て、ロック。……あそこ、最初に登ったところ。……壊れてしまったのね」
「本当だな。あー、あれじゃ俺でも無理だなあ……」
「ね、登れないでしょう。――朽ちていくばかりね、瓦礫の残骸が」
「うん。前よりまた、崩れたよなあ」
「……何百年かかるかわからないけど、いつか、ずっと先、跡形もなくなるのでしょうね。この塊も、ベクタの跡も、なにもかも」
「……うん」

 気持ち、半歩分。チョコボの手綱を引いて、もうすこしだけ距離を寄せあった。おおきくてあたたかな鞍下の翼がほんの少しばたついて、しっとりと水気をふくんだ草をふみしめる。
 もういちど伸びてきた広いてのひらが、今度はセリスの頭をそっと抱き寄せた。
 ことん、とおさまった先には、ごわついた布の感触。晴れた日は土埃とおひさまの匂いがするのだけど、今は雨と裏葉の匂いがする。
 たいらかな温度、必ず受けとめてくれる肩の幅。高さも厚みも内側の体温も、すっかり彼女の頭のかたちになじんで、ぴったり合うようになって、それからもうずいぶん経った。

「……もう、無理なのかな」
「なにが?」
「あの花を、見るのが」
「……ん」

 短い爪の、長い指先が、セリスの髪の一房にたわむれて、ぽんぽんと頭に触れた。

「探す? ――ほかの登り道」
「……いい、かな」

 だって、摘んでくることはできないから。
 そうつぶやくと、そっと額に唇が落とされた。
 ロックの唇は、いつものように皮膚が薄くて、そしていつもと違って水気を含んでしっとり冷えていた。目を閉じると、それが離れていくときに立てる、聞こえるか聞こえないかの小さな音が、ちゅ、と耳に届いた。
 春雨が散る。かすかな音は間断なく、しずかにしずかに目に映るすべてを湿らせ続けている。

「あの花は、咲いてるかしら」
「咲いてるさ。……きっと」
 今の時期だよな、ちょうど、と、ロックは言った。

 咲き誇っていた薔薇の姿を、思い浮かべる。
 最初に、塔の残骸に登ったとき。瓦礫の足場を踏み越えて、ようやく登って、錆鉄の柱をくぐり抜けた先に、これでどうだとばかりにあでやかに、誇らしげに首をもたげていた。
 ふっくらと小さめな花姿で、芯は雌黄。花弁はクリーム色でごく淡い黄色に見え、ふちはふわりとやわらかな天青色。そのグラデーションが、何重にもかさなったレースの影の色のようだろう、と、シド博士はうれしそうに示して見せたものだった。
 「セリス」という名の薔薇の株。
 作出されたのはちょうど、セリスが将軍職を預かる少し前だった。魔導の力がセリスの身の中で落ち着き始めた頃で、シド博士にも温室の植物をかえりみる暇が出来たからだったのだろう。
 だが、鉢の一株をのぞきこみながらも、セリスは言えなかった。
 「あのね、シド、私はレースのドレスなんて着たことがないの」と。
 淡いクリーム色のサテンも白いレースも、大きなリボンも、剣だこのできた手には似つかわしくない。そう自分に言い聞かせていた。
 シドが稀に、冷たく値踏みするような目をセリスの背中に向けているのは知っていたし、そんな彼を呼んでみせればはっとしたように座り直し、笑顔を作ってくれているのもわかっていた。
 だから、シドは。「完璧な人工魔導士」であれと、自然界にはありえない色の薔薇であれと、青薔薇の作出に血道を上げているのだろうと思っていた。
 それで――ぞっとしたのだ。あのひとが、いつのまに温室に入り込んだのか、「セリス」の前に立っていた時。辺り一面の株を、ちぎって引き抜いてだめにしてしまうのではないかと、そう思ったから。
 でも。
 彼は、ただ見ていた。
 茫とした風情で。薔薇の株の前に。ただ立っていた。手をのべるでもなく、観察するでもなく。ただじっと、その株に視線をおとしていた。
 足音を忍ばせて立ち去ってからも、ずっとその後ろ姿は焼き付いていた。頭の隅の、どこかに。ずっと。あのごてごてとした脈絡のない配色のなかに、青はなかったようだと思い至ったのは、しばらく後のことだ。

 いつか、何かの辞書で見た。
 「奇跡が起こって望みが叶う」
 青薔薇は、そんな花言葉を持つのだという。
 では、完全な青一色の薔薇ではない「セリス」の、花言葉は何と言うのだろう?

「不思議な薔薇だったよな」
「……そうね」
「あれだけ力強く、水だけでしっかり繁って、いくつも花をつけていたのに。一枝、折って持ち出してきたら、すぐにしおれちまった」
「水を含ませた綿で切り口を包んでおいたのに、瓦礫跡から持ち出したとたん、だめになってしまったわね」
「……うん。そういう花なんだな」
「そうね、……まるで、」

 あのころの私みたいね。

 出かかった言葉を、セリスは飲み込んで、もう一度、瞼の裏に薔薇の姿を思い浮かべる。
 もしもそれを口に出したら、隣のひとはきっと、少し不機嫌そうに眉を寄せるだろうから。

「……何?」
「……ううん」

 セリスが自分を貶める言葉を口に出すのを、ロックはずっと許さないでいてくれる。
 それが、うれしい。嬉しくて愛おしくて、ほんの少しかなしい。
 うつむいた頬にまた、長い指先が伸びて来、横髪をそっと払っていく。

「そろそろ行こう。――ずいぶん冷えてるぜ、おまえ」
「うん。……でも、ごめんなさい、もう少しだけ」

 セリスはもう一度、煙る瓦礫の残骸をみつめ、目を細めた。

 春雨の滴る、しずかな音が響く。
 淡い白灰色の空から大地に向かって、まっすぐに、見えないほどの細かい滴がほそい線を引きつづけている。



 過去の残骸の、あの錆び付いた造形物のただなかに、今もきっと薔薇は咲き誇ってるのだろう。

 


(2017.2.7)

 

 

 


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