別館「滄ノ蒼」

熱背

 

 ひときわ大きく轟音が鳴った。
 雷鳴を真下で聞いているよりもまだ激しい崩壊音が、五感のすべてを埋めつくす。
 ついさっきまで踏みしめていた―そしてセリスが足を滑らせ、ロックがそれを助けた、うずたかく積もった瓦礫の足場たち。煉瓦のかけらや金属片や、穴のあいた合板やパイプや硝子の筒などが、今しがたまでこの脆い造形物の、あやういバランスを支えていた。

 それが、すべて。
 崩れつつある。

 全速力でのがれ出てきた通路のほぼ七割方は、すでに原形をとどめていない。追い立てられるように走った後が、次々と形を失っていくのだ。
「もうすぐ出口だ!ファルコンに飛び移る!」
 すでに一つ先の通路に渡っていたエドガーが振り返り、叫んだ。
「落っこちた奴は助けられねぇからな、自分の体は自分で何とかしろ!」
 セッツァーがそう受けて怒鳴り返した瞬間、ごぅん…と塔全体が振動した。足もとがぐらぐら揺れる。もうもうと立ちのぼる埃。セリスは鼻と口をかばいながら、横合いから吹っ飛んできた錆の塊をかわし、ロックの横に飛びすさった。勢いあまってぶつかり、二人して転ぶ。
「ロック、ごめんなさい!大丈夫?」
「大丈夫!こっちだ!」
 彼女の手をとって、ロックは身軽に足場を駆けはじめる。ぎしぎしとヒステリックな悲鳴を立てる頭上の鉄骨から、ぱらぱら、金属片が降り注ぐ。
「出口はあれね!」
 隣にいても、崩壊音にさえぎられて、どうしても声が大きくなる。セリスが指さしたその方向には、赤茶けたぎざぎざの額縁に切り取られた空がのぞいていた。
 暗灰色の雲がぐんぐん動いており、仲間の誰かがそこから飛び降りるのが見える。汗ばんだ額を手の甲で拭うと、セリスはあとほんのひと走りの距離に横たわる障害物を乗り越えようとした。
「ああ、あそこだな!…っと、その前に」
「なに?」
 振り返ったセリスの髪を爆風が舞い上げて走りぬける。
 その金の波を、ロックはふわりと抑え、そのまま後ろから彼女を抱きしめた。
「ロック…!何、して…」
「ごめん…五秒だけ、こうさせて」
 がっちりした腕が、肩を押さえていて動けなくて暖かい。大きな手が髪を梳き、色褪せた青い布の巻かれた細い腕をなでる。あらわになったうなじに乾いた唇が押しあてられ、びくりと電流が走った。
「…あ…!」
「温かい…良かった…ほんとに生きてる、生き残れる、セリス」
 塔全体が、がたがた揺れている。響きわたる崩壊音のなかで独り言のように低くつぶやきながら、ロックは激する感情を自らの唇にこめた。白い肌が荒っぽく吸われ、意外に大きな音がたつ。
「さっきは本当に血の気が引いたんだからな!…こんな布一枚のために、お前は!」
「ごめんなさいってば!…やだ、早く、行かないと…!」
「行かせねぇよ」
「…っ!」
 肩をつかまれたまま温かい感触が背中まで這い下がり、セリスは思わず身をよじった。
 すると腕の力はそのままに、唇がそっと離された。
 茶色の目が、砂色の髪が、肩越しに彼女をのぞき込む。ロックにしては珍しく鋭くなったその目が。誰よりもやさしい、透明なその色が。
 揺れて、近づき。
 次には唇が、塞がれていた。
「…ん」
 前歯の隙間を割って舌が侵入する。体温がなじむ。腰に回った手に力がこもる。
 密着した背中が、熱い。熱い、熱い熱い!
 セリスは体の力が抜けそうになるのをこらえて、自分にからみついたロックの腕をそっとなでた。

 塔全体が再び、轟、と震えた。

 魔物の頭ほどもある何かの塊が。錆びた鉄のまがった切れ端が。割れたガラス片が。
 まるで意志をもったものであるかのように、まっすぐにひたすら下へ、下へ―地面へと進んでいく。地響きをたてて。

 ―もっとこのひとが欲しい、

 なのにそう思った。思ってしまった。
 ここから脱出できるか、死ぬか生きるかの瀬戸際だというのに、そんなことを思ってしまった。
 思考が甘く溶けようとするのを叱咤しながら二人は目をあけ、唇を引きはがしていく。ほんの短い口づけの名残を惜しむように、ゆっくりと。
「…行こうぜ」
 ロックは腕を解いて体をはなす。
 手だけつないだまま歩きはじめると、埃だらけの風がセリスの背中のうしろに割り込み、体温を吹き飛ばしていった。

 ―寒い

 自分で自分を抱きしめても何のかわりにもならない。
 そう思った。思ってしまった。
 片手で逆側の自分の肩をさすってみると、すでに空気に曝されて冷えていた。そっとロックを見上げると、彼はもういつもの真っすぐな目を先に向けている。
「ここを出るんだ。出て、生き残るんだ」
「…そうね、早く出ないとね」
 小さな声が聞こえているのかいないのか、ロックはぐいぐい歩いていたが、ふいにセリスを見つめた。彼女の背中をなでて、しれっと言う。
「時間があれば、この下までキスしたんだけどな」
「…ばっ…!!こんな時に、こんな所で、なんてこと言うのよ!」
 耳まで赤くして振り上げられた腕を逃れて軽やかに笑い、ロックは出口まで走っていくと下方をのぞきこんだ。振り返り、叫ぶ。
「セリス、急げ!ファルコンはこの下だ!」
「わ…わかってる!」
 空中にロックの身が躍った。ぱらぱら、何か分からない細かい欠片が塔の内部で降り注ぐ。セリスは片腕に巻きついたバンダナをおさえ、瓦礫と空の境界までロックを追った。
 結び目をぎゅっと握って、確かめる。
 ―私の、お守り。ちゃんとここにある。
 もう、さっきのように外れたりしない。飛ばされたりしない。
 ごうごうと舞い上がる風に背中は冷たいが、バンダナの巻いてあるそこだけは暖かかった。

 はるか下、白い飛空挺の甲板では、ロックがこちらを見上げて手招きしている。
 セリスは息を整えるとまっすぐにその人をみつめ、彼の腕の中めがけて飛び降りた。

(2009.11)