あんたは覚えているか。俺が初めて、あんたに触れた時のことを。
秋口だというのにひどく暑い日だった。あんたは庭に水を撒いていた。
呼び立てておいて、水撒きが終わるまで待って、なんぞと言うから、俺はおとなしく障子の陰に正座して、あんたを眺めていた。
あんたは素足に下駄をひっかけて、ホースの先のシャワーをあっちこっちに向けてふりまわしていた。無頓着に自分の足元にも水を撥ねさせるから、スカートの裾はだんだん水に染み、くたりとしていった。――これは、タオルでも用意しておいてやったほうがいいのか? 放っておいていいのか? 今思えば、俺は気をもんでいたのだろう。けど、どうしたら良いのかわからなくて、ただあんたの方を、じっと窺っていた。
ぎゃあ、と間抜けなあんたの悲鳴に、俺は立ち上がった。ホースが何かのはずみでうねって、頭から水をかぶったのだ。ああもう、やだ冷たい、言いながらあんたは手首で額をこすって俺を振り返り、水撒きおわりー! と、にかっと笑ったんだ。
風がないせいで陽射しがやたらと暑い日だった。虫の声すら聞こえなかった。
俺はあんたの頭をごしごし拭いてやった。細くてつややかでやわっこいあんたの髪に、俺はそのとき初めて、指を絡めた。
あんたは覚えているか。あんたが二度目に、俺に触れた時のことを。
「そんなのは駄目」だと、あんたは言った。たぶん出陣中に、俺が何か単独で行動しようとしたのを咎めたんだったか。放っておいてくれ、と顔を背けた俺の両頬をつかんでぐいっと自分の方に向けて、再度、「駄目」と、あんたは言った。
大倶利伽羅が傷つくのを見るのは、私が嫌なんだもん。
あんたはそう言って、俺の両肩から腕を、ゆっくりと撫で下ろした。
左腕に巻きついたこの龍を辿るように触れていき、最後に手首をきゅっと握った。
凩に吹き散らされた紅葉が硝子戸にぶつかる、かさかさいう音が不意に耳についた。手首からじんわりと体温が染みこんできて、「ずいぶんと風に冷えていたんだね」と、あんたは言った。
あんたは覚えているか。俺たちが三度目に、肌を許し合った時のことを。
まだお互いに物慣れなくて、あんたは未だに恥ずかしがって灯りを消し、けれどぎこちなく自分から俺に触れ、胸元や腰に手を導きすらした。
飾障子の外には雪が降り積み、しんしんと、すべての物音を吸い込んでいた。熱を発するのも息を吐くのも、あんたの身体だけだった。ぽっかりと音を遮断する膜に包まれたようで、ほかには何も聞こえなかった。だからせめて声くらい聞かせろと、俺は言ったはずだ。
暗がりの中でも、あんたがいやいやと首を振ったのはよく見えた。身をよじってぎゅっと目を閉じて、自分の手の甲を噛みしめたりなんぞしているから、俺は確かもう一度、聞かせろよ、声を。そう言った。
かろうじてあんたが発したのは、絶え絶えの、やだ、という一語だけだった。
あんたは知っていただろうか。
俺はこの身を得たときに、あんたの姿を見るよりも先に、あんたの声を聞いたんだ。
音も匂いも色もない世界から降りてきて初めて、あんたの声を聞いたんだ。
――全部、俺が覚えている。
だから仮令あんたがすべてを忘れても、俺への感情を忘れるのだけは、許さない。