「弑し奉る」
父帝の胸元を後ろから一息に貫き通した皇子の目には、何の感慨も浮かんでいなかった。
ただ、それは必然だったのだ、彼にとって。
「帝国」の名を冠してはいたが、パラメキアは地に恵まれず水は乏しく、急峻な山地と乾いた砂ばかりの、ごく貧しい国だった。
森や沼地は南北の国境近くにしか存在せず、そこでは時折発生する「森ノ疫病」が人々の定住と開墾を妨げ、間隙をついては隣国の警備軍や漂流民がパラメキア領を蚕食し、わずかな資源をかすめとっては去っていった。
北には、千年の歴史を謳われる古豪カシュオーン。南には、大陸の華を自任するフィン。
二つの大国に挟まれ、双方に見捨てられた土地になんとかしがみついて国の形をなしたパラメキアは、ほかの国に対する一切の交わりを断つことで、ようやくこの世界の中での立ち位置を得てきた。人の出入りを禁じ、国の内側を見せない。そうして神秘性を高め、謎めいた土地として他国民に畏れをいだかせる。代々の皇帝がそうしなければ、パラメキアの地はとっくの昔にフィンかカシュオーンのいずれかに呑みこまれていただろう。いずれ辺境のやせた土地として打ち捨てられることになったのかもしれないが。
いずれにせよ、この小さな帝国は、大陸に覇を唱えることなど思いもよらず、貧弱な領土を守ることだけで汲々としている――手元の地面をみつめるのに精いっぱいで、天に手をのばすことなど夢のまた夢だ。
皇子マティウスは、そんな母国の卑小さに、幾度歯ぎしりしたか知れない。
やろうと思えば可能なのだ。
国交を求めるのではなく、へりくだるのではなく、一気に国々の均衡を破り、そのまま、世界に存在する国家のすべてを圧してしまえば良い。
何かひとつ――決定的に力の差となる、何かたったひとつの要因――さえ、手に入れることができたなら……それは夢想ではない。兵を訓練し、帝国内の指揮命令系統を徹底し、力をひたすらにみがきあげることがかなえば、――マティウスがそれを指揮できるのならば、実現できるだろう。否、やってみせよう。
だが実際には、現状、マティウスはいくら手を伸ばしても、天どころかこの国の玉座すら仰ぎ見ることのかなわぬ立場だった。
第一皇子の称号を持ってはいたが、彼は第三妃の息子に過ぎなかった。
父帝の后は数年前に他界していたが、彼女が残した弟皇子、あるいは皇女の婿となるであろう男、いずれかが皇位継承順として優先されるのがパラメキアの範だった。もしもほんの少しでも、マティウスが玉座を欲するそぶりを見せたなら、皇子の肩書など一切関係なく即座に、簒奪を意図したという汚名を着せられ、侮蔑の言葉とともに葬り去られるだろう。
力が、欲しかった。何もかもをひざまづかせる力が。
いくら頭の中で策を組み立て、戦略を練り上げても。いくら臣下たちを統率し、統治の知識にすぐれ、武器の技に秀でようとも――捧げられる忠誠と従属の誓約は、あくまでも父帝と弟妹のものだった。
弟皇子は、おとなしく従順な少年だった。
妹皇女は、いかにも姫君らしくあどけない高慢さを漂わせる少女だった。
そして父帝は、どこかの属国の王のごとく国同士の力関係を読むことに腐心する、小心な男だった。
「弑し奉る」
父帝の胸元を後ろから一息に貫き通した皇子マティウスの目は、どこまでも冷ややかだった。
その行動は、彼にとって必然だったのだ。
帝は、自分の胸元から突き出た剣先を呆然と見つめ、あえいだ。
「マティウス……貴様……」
「国交を開こうとする。他国にこびようとする。他国からぜいたく品を買い入れようとする。民の逃散を気に留めない――あなたはわが国にとって、害悪にしかならぬ」
皇子はさらに、剣先にぐいと力を込めた。ずぷり、と小さな音がして、剣からしたたり落ちた液体が、緋の絨毯に黒い染みを作った。
「早々に、あなたの尻の下にある椅子を明け渡していただこうか、父上」
「何……を……第三妃の息子にすぎぬ貴様が、簒奪すると、いうか……帝国の主席魔道師の席を、貴様のために、用意したと、いうに……!」
「そんなものは、いらん」
弟には地上の玉座を、兄には知的世界の頂点を。そう望んだ父帝の言葉を、マティウスはただの一言で切り捨てた。――やはりこの男は、自分の皇子たちのことなど、なにもわかっていなかったのだ。もともと冷え切っていた父への感情は、完全に塵芥に対するそれと同等になった。屑物ならば排除するだけだった。あえて急所を外していた剣を、マティウスはぐいと斬りあげた。
「……貴様が、っく……、皇帝の座になど、つける、ものか……! う……皆の者、早く、……」
居並ぶ家臣たちを、帝は見回そうとしたが、彼らはいずれも微動だにせず冷たく見守っているだけだった。
その瞬間、帝は悟ったのだった。第一皇子は周到に、罠をめぐらし終わっていたのだと。
もはや自分をパラメキア皇帝であると認めている者は、この場にはすでに誰もいない。玉座からすべり落ちつつある帝の血走った眼は大きく見開かれ、絶望の色を宿して、叫ぶ形に口が広げられる。
マティウスはさらに剣を父帝に突きこむと、耳元に唇をよせ、ささやいた。
「――あなたのかわいい息子と娘は、一足先にあの世であなたをお待ち申しているぞ」
父帝は体をわななかせ、叫び声をふりしぼった。だが、肺から空気が漏れ出る音がかすかに響いただけだった。見開いた目がゆっくりとまたたく。ごぽ、と口から血が吹き出た。
「眠っている間に旅立たせたのは、わが弟妹へのせめてもの慈悲なのですよ――」
皇子は剣を引く。
この国の帝だったものは、うめき声ひとつあげないまま、ごとん、と音を立てて床に落ちた。
止まっていた空気が、ざわりと流れた。
居並ぶ臣下たちが、皇子の周囲にひざまづくために、無言のままゆっくり移動しはじめたのだ。
「城門を閉じよ。国境を閉ざせ。鼠一匹出してはならぬ」
剣の血をさらりと拭い、マティウスは命じた。
「貴様たちの尽力により、愚帝は倒れた。混乱をきたさぬため、第一皇子である私が帝権を代行する。――異存のある者はおるか」
あでやかにすら笑みを浮かべ、玉座の間を見わたす。居並ぶ者たちは一人残らずひざまづき、静かに頭を下げていた。身動きする者はだれもいない。
「――殿下!」
大扉が開かれる音が、静寂を破った。
駆けこんできた者に視線が集まる。中にはやや非難がましい目を向ける者もいたが、その家来はかまわずにマティウスに近づき、礼をとると言上した。
「ご無礼を。――アイル様が、北の国境に向かおうとしておられるご様子とのこと」
「ふん、母がか」
「皇女殿下薨去の報をどこからか聞きつけたご様子、大慌てで馬車の支度をなさっているとか」
「あの女。……私に殺されると思ったか」
マティウスは、薄い唇の端を軽くつり上げた。だがそれは笑いではなく、侮蔑の色だけを宿していた。
父帝と同様、母妃に対しても、マティウスは塵程度の感情しか持っていなかった。年に数度、宮を訪問し、簡単な挨拶をする。その後の会話は続かなかった。母妃は息子の体調や学問の進度を気遣うでもなく、大儀そうに宝飾をもてあそびながら結髪の具合を気にしているような女性だった。
「何人ほどだ。捕えられるか」
「御心のままになりましょう。侍女十名、私兵四十名あまりがつき従っている様子とのこと、そう素早くは移動できぬかと拝察いたしますので」
「侍女に、兵か」
艶やかに彩られた目元が、氷点下の温度を宿した。
「……それだけのものどもに世話をさせねば、自分の身一つ運ぶことができぬのか。逃げようというのに行列を仕立てねばならぬのか。不穏な行動を隠そうともせぬのか――」
薄い唇の端を鋭くつりあげて、皇子は吐き捨てる。
「――無能め」
わが身可愛さで勝手な行動をとるような者は、マティウスのもっとも嫌悪するところだった。今まさに彼の邪魔になっており、許したところでいずれにせよ遅かれ早かれ厄介を起こす。芽はつんでおかねばならない。足元にまとわりつく存在など、何の価値もないどころか、害虫だ。
「いかがなさいますか?」
「言うまでもないわ。――始末せよ」
さすがに幾人かの臣下が息をのんだ。古参の近習の一人が諫言する。
「殿下、さすがにご生母までも手にかけるのはいかがなものかと。世の評判にかかわります」
「評判! ……はっ」
明らかに皇子は、嘲笑した。
「貴様の言う『世』とは、どこのことだ? 『評判』とは、誰と誰が作るものだ? そのようなもの、実体のない幽霊にすぎぬ」
圧倒的な恐怖をまとっていた口調をあやすようなものに変え、視線を先ほどの近習に向けると、マティウスは声を低めた。
「在ったとして、このパラメキア一国のことであれば完全に制してやる。他国を含めたことであるなら、そこもすべてこの私が支配するまでだ」
背筋の凍るような感触を覚えながらも、近習は主人の顔に全感覚をひきつけられ、脳が甘くしびれるのを止められずにいた。
――このひとは。
――このひとは、猛毒の媚薬だ。
「そもそも『あれ』を殺すとは言っておらぬわ。虫けらではあるが、危険ではない。……侍女どもは捕らえよ。抵抗するならば、兵は殺せ。『あの女』は――放り出せ」
優美な笑みを口の端に上らせて、皇子は言った。その口元が、かつて輿入れの時には北方系の美女とうたわれた母妃にひどくそっくりで、戦慄を覚える者も幾人か、その場にはいたのだった。
「どうせ一人では何もできぬ女だ」
それだけ言い、マティウスは母のことなど頭から完全に消去した。
それはいかにも瑣末なことだった。そんなことよりも、考えなければならないことと命令しなければならないことは山のようにある。さしあたって城門内を完全に制圧するための指示を次々と出していきながら、高揚感がゆるゆると、腹の内側を這いのぼってきた。
まずは、第一歩。
言葉を切り、広間を見渡したマティウスは、喉の渇きをおぼえた気がした。
幼いころから漠然と、彼はそれを感じ続けてきた。砂漠に覆われた地を見るたびに、すずしげな雲の向こうの夜空を見上げるたびに。錫の高杯ごときでは到底満たすことのできなかった感覚が、体中を覆いつくそうとしている。
今まさにその感覚は、渇望とすらいえるほどに強烈だった。
きっと自分は、地に縛られることなくそこを見下ろすことができるだろう。思うがままに地を駆け、そして天に手を伸ばせるだろう。圧倒的な力の差となるひとつの要因を、見つけたのだから――
……そうだ、わが「力」として使える者を、手に入れたのだ。其奴は今、自分の足元に控えている。
再度、ゆっくりと視線をめぐらせる。そしてマティウスは、小さくつぶやいた。
(……まあ、急くな。影よ)
もぞ、と、玉座の後ろで、影がうごめいたようだった。
それはごく薄いかげりであって、無数に蠢動する細い触手をのばそうとしていた。その周辺だけ、わずかに空間がゆがんでいるようにも思える。だがその存在に気づいているものは、マティウス以外には誰もいない。すいと払われた彼の袖が、玉座の裏にたゆたうわだかまりを、柔らかくなでた。
<――早く、我を出せ>
(急くなと言っておる。貴様の出番はまだまだだ)
<――待ちかねておるわ、早く我を出せ、マティウスよ>
聞く者の脳髄を愛撫するような音色で、影は囁き続ける。
<我の力を、思うがままに使わせてやろうぞ――さあ、早く――>
(人の世界には煩わしい手続きというものがあるのだ、影よ。しばし眠っておれ、あとで思う存分使役してやる)
<……早く、出せ――>
身にまとわりつこうとする甘い声を振り向きもせず、マティウスは一歩、前に踏み出した。
「これよりパラメキアは大陸に覇を唱えるべく、強国への道を歩む。ついてこれぬ者は置いていく。卑小な現状に満足している者は、いらぬ」
抜き身の剣を水平に掲げ、マティウスは宣言する。
「――力を望む者は、私に従え」
その場にいたすべての者が一斉に跪礼をとって、衣ずれの音だけが広間に響いた。
「どうぞご命令を、殿下。――いえ、陛下」