日向と日陰の境界は、白い石畳の上ではいっそう鮮やかに、目を刺すようだ。
城壁の石組みは乾いた埃っぽさをまとっており、内庭の敷石や砂利に向けて容赦なく日ざしを落としこんでくるが、青々と茂った木々の陰に入れば、意外なほどの涼しさを感じられる。フィンの都の夏は、そう湿気が多くはない。
そこに敷かれた石畳を歩いていくのは、白い亜麻布に身をつつんだ少年、否、青年になりかけたばかりの年齢の、浅黒い肌を持った人物だ。石畳の照り返しは亜麻布に照り映えては影を描きだし、ときおり夏草をゆらめかせる風が、彼の衣装の裾をなぶった。かすかに切れぎれの、油のはねるような蝉の音が耳をかすめていく。
全身を覆う白い亜麻布の衣装は、白魔道師の証である。
熱を含んだ敷石に一歩を踏み出すごとに、彼の足元では、しゃらり、と足環のかすかな金属音が立った。規則的なその音は、単に装飾品の役割を果たしているだけではなく、周囲の者に対して少しの注意を惹起させるためのものでもあった――すなわち、「みだりにこの者に近づき、精神を乱れさせてはならない」。
白あるいは黒の専門魔道師であれば、そういった類の装飾品を身につけるのがミシディアの習いだった。彼らはそこを離れても、その道にある限り修行地での慣習をよく守る。魔道師たちがそれぞれに受け入れる「世界の理(ことわり)」の違いからか、白魔道師では足環をつける者、黒魔道師では腕輪を重ねる者がやや多いようだった。
石像の脇を曲がったところで、子供の声が聞こえた。
「……って……まってよ……にうえ……」
同時に、ぱしゃぱしゃと水の跳ねる音もする。小さな子供が、水辺ではしゃいでいる気配だ。この城の池ではしゃげる子供などそう多くはなく、そのいずれもが、若い白魔道師にとっては見知った人物だった。
「……あにうえ……ってよ……」
きれぎれに聞こえる幼い声に、彼は足を止め、ふと切れ長の目元をほころばせた。
石畳をそれて、差し交した枝をかきわけ、土を踏む。日陰の下草は水分に満ちて、彼の足首で鳴った、しゃら、という音も、やや柔らかく響いた。
「――ミンウ?」
白魔道師が探し人を見つけるより先に、相手は茂みをかき分けて、勢いよく顔を出した。
「やっぱりミンウだ。久しぶりだな! 主席白魔道師の補佐に昇進したと聞いたぞ、おめでとう」
「――スコット王子。ありがたき幸せ、ご機嫌麗しう――」
膝を折って、ミンウは型通りの挨拶を申し述べようとしたが、スコットは彼をせっかちに立たせ、まだあどけなさの残る繊細な顔立ちを輝かせて、元気だったか、どうしていた、などと言いながら肩を抱いた。
魔道師のほうは、嬉しくもうっすらと微笑むだけで、旧知の少年に対する深い親しみと敬意を示す。
「……よく、私だとお分かりになりましたね」
「ああ、その足環の音が聞こえたから。普通の腕飾りや髪飾りとは違う音だ」
「相変わらず耳がよくていらっしゃる――」
形の良い自分の耳を指さしてみせた王子に向かって、ミンウは目を細めた。
伝統深いカシュオーンの第一王子は、これでなかなかのいたずら好きで、老臣や時には父王を相手に、柱の陰から足音をうかがっていたのを見たことがあるのを思い出したのだ。
ふと気付くと、装束の裾をびしょぬれにした幼児がスコットの衣装の端を握りしめ、じいっとミンウを見上げていた。目を向ければ、たたっと走って行ってしまい、また水面をばちゃばちゃやりはじめた。スコットの弟王子だ――御名は何と申し上げただろうか? 前回会った時にはまだ乳児だったはずだ、子供が成長するのは速いものだ。自分だってまだ少年と言われてもおかしくはない年であるのに、ミンウはしみじみとそう思った。
「――弟君と?」
「ああ、フィンの城は初めてなのでな。あちこち見ないと気がすまないようだ。……ゴードン、そろそろやめなさい。行くぞ」
「やだ! さかな、とる!」
弟王子は意地を張って兄に背を向け、池の真ん中に向かって数歩、進んだ。待って、待ってよ、などと声をあげつつ、水に膝までつかって小さな手で一生懸命水をすくっている。
「魚がいるのですか」
「いる、らしいな。さっきから大喜びで、ヒルダに見せてやるんだと言って――あ!」
小さく叫んだスコットは、勢いよく池に走りこんだ。水底の敷石に水草でもついていたのか、魚に手を伸ばした勢いでゴードンが足をすべらせたのだ。水は大して深くはなく、スコットの膝に満たないくらいではあるが、幼児には少々危険な深さだった。ざぶざぶと衣装が濡れるのもかまわず水をかき分け、弟を急いで抱きとめる。
「――ゴードン!」
「……わあ! あにうえ!」
自分が足をすべらせたことよりも抱きとめられたことに驚いたらしく、弟王子はしたたかに足をばたつかせた。
「おい、ちょ……!」
「――危ない!」
ミンウもサンダルをかなぐり捨てて池に飛び込む。バランスを崩したスコットを後ろから抱きとめようとする――間もなく、視界が反転した。
――バシャァァァァン!
華々しく水しぶきをあげつつ、三人はまとめて池に尻餅をついてしまった。
しばし間があって、呆然と目を見開いていた幼児が泣きそうに顔をゆがませる。
「……うぇ……」
「……っ、くくく、……あはは! ずぶぬれだな、ゴードン!」
兄王子は弟の頭をわしゃわしゃ撫で、ミンウを振り返って目が合うと、さらに笑った。白魔道師もつられて、声を押さえて笑う。
「ああもう、こうなったらいっそ、こうだ!」
スコットは勢いよく水をミンウにかけた。笑いながらやり返される。さらにやり返す。ついでに弟にも水をかける。子供は頬をふくらませ、全身で水を蹴った。
ミンウは笑いながら飛沫からのがれ、土の上に逃げあがった。白い亜麻布をたくし上げ、絞る。支障のない範囲で脱げるものは脱ぎ、日なたに広げていると、さんざん濡れ鼠になった王子たちも陸に上がってきた。
「ああ、これは――ばあやに大目玉だな、……くくく!」
あらためて弟と自分の格好を眺めて、スコットはもう一度、ひとしきり笑う。笑みをおさめると、弟にばんざいさせて服を脱がせ、自分も手際よく肌着まで脱いで干し、草の上に腰を下ろした。ミンウが装飾品の水気を拭って足に着けなおすのを見やりながら、弟をしっかり脚の間に抱えなおす。しゃら、と音を立てながら、金の地金に小さな赤い色石の嵌った環が褐色の肌を飾りなおしていく。しばらくの間、スコットはそれを眺めていた。
その腕の中で、弟王子はしばしじっとしていたが、水面をみつめると身じろぎし、小さくつぶやいた。
「……さかな、」
「止めておきなさい、ゴードン王子。死んでしまいますから」
ミンウはぴしゃりとそう言った。
そしてその目は、意外なほど強い視線をゴードンに向けており、それを見上げた小さな王子は少し萎縮したように首をすくめた。
「生けるものを殺すと、報いがある――と申します」
「地獄――か」
蝉の音が、ひと声だけ余韻をひいて、消えた。
「じごくとはなんですか、あにうえ?」
小さな王子が一生懸命に兄の袖を引いた。
兄王子と白魔道師はすばやく視線をかわし、悪戯を企む年相応の目をした。
「そうだな……これは母上にも父上にも内緒だぞ、ゴードン」
兄は真面目な顔をつくり、声をひそめる。
「地獄とは恐ろしいところでな。ジェイドという名だそうだが、そこに堕ちると、地の底の暗いところで魔物どもに責め苛まれるのだ」
「その通りです、王子」
「魔物に切り刻まれるのみならず、煮え立つ血の海でおぼれたり、木に変えられて虫や土竜に食い荒らされ続けたり、……ええと」
「火の雨が降りそそぐ崖を永遠に歩き続けたり、です、王子」
「そうそう、火の雨に降られたり、……色々だ! とくに、食うためでなく生き物を殺した者はいちばん恐ろしいところに封じ込められるらしいぞ」
「おっしゃる通りです、王子」
しかつめらしくうなずきながら、もっともらしく調子をあわせていた白魔道師だが、後ろを向くと小さく肩をふるわせ始めた。笑いをかみ殺しているらしい。スコットはその腕を軽く叩き、爆笑をこらえながらミンウもやり返す。少年たちの水面下での大戦争は、兄の腕の中から身を乗り出してバッタをつかまえた弟王子が、虫を兄の目の前につきだすまで続いた。
「わたしは、……なんかいも、とんぼを水にしずめたりアリをつぶしたりしてしまいました。生きているものをころすと、『じごく』におちるのですか?」
弟は怯えたようにまんまるな目を見開いて、あにうえ、あにうえ、と纏わりつく。
「言い伝えだ。誰も地獄を見た者はいないのだ。怖がらなくていい」
兄はいつものように笑って、弟の髪をくしゃりとなでて立ちあがった。
手早く衣を身に着け、弟にも衣装をかぶせる。強い光を浴びてすでにすっかり乾いていた布は、熱をからりとふくんでおり、再び身につけられた身体を熱く包みこんだ。
そして兄はいつものように笑って、弟の手を引いて歩きだす。
……じゅわじゅわと、しぐれるような虫の声が耳を打った。
若い白魔道師はくすりと笑って、王子二人の後に続くべく、踵を返した。
くっきりと暗い木の陰に残されたささやかな池の水はしんと揺れることなく、苛烈なほどに眩しく乾いた太陽の光は、三人が歩き去った石畳を白く静かに灼いていた。
まだ年若い少年たちにとって、冗談に口の端に上らせただけの地の底の世界は、はるかに遠い。
――誰も地獄を、死後の世界を見た者はいないのだ。
――怖がらなくていい。
……否、あまりにも遠かった、のだ、この時は、まだ。
(2012.7)