天幕を揺らす風の音が聞こえたような気がして、フリオニールは目を覚ました。
引きかぶっていたマントを離して身を起こす。狭苦しい闇の中で、ガイもマリアもすうすうと静かな寝息を立てている。その穏やかな気配に安心しながら、再び覆いかぶさってきた眠気を振り払い、首を振った。見張りの交代はもう少し先だろうが、外の様子を見に行こう、そう思った。
そっと天幕の入り口をめくる。襟元から寒気が忍び込んできて、フリオニールは思わずぶるりと身を震わせた。
山際にそって南下すれば、ポフトまではあと一日の距離だった。明日の夜は宿屋の寝台で眠れるだろう――何事もなければ。しかし休む前にシドを訪ねて話を聞かなければならないだろうから、明日はできるだけ早足で歩かなければならないはずだった。
外に顔を出すと、焚火の光が眩しく目を打った。小枝が小さくはぜていて、向うには黒々とした森の影が一面に広がっている。冷えた空気が、頬に当たった。
だが、見張り当番のミンウの姿が見えない。
フリオニールは、マントを引き上げてしっかり体に巻きつけると、天幕から這いだした。白い長衣の後ろ姿を探して、辺りに首をめぐらす。風はない。しんと深く澄みきった夜の闇の色が染み込んできて、頭の奥を冷やした。
ミンウは焚き火から少し離れたところで、空を見上げていた。
月明かりがその姿をくっきりと照らしだし、ミンウの白い衣はその光を受けて、やわらかく輝いている。フリオニールが近づくと、足元で草が、小さく乾いた音を立てた。
「――ミンウ」
白魔道師は音もなく振り返り、覆布で隠れていない目元だけで小さく笑う。
「……起きたのか。交代はまだ、先だと思うが」
「目が覚めちまった。寒くないか?」
「大丈夫だ」
「そうか」
フリオニールは髪をくしゃくしゃかきまわすと、長い後ろ髪をまとめて片側に流した。月の光に銀糸はよく映えて、清冽な光を集めたように淡く光った。
すこし目を細めてそれを見やると、ミンウは再び空を見上げた。
「十月の――満月か」
皓々と輝く、まるいまるい月が、天頂近くの南の空に浮かんでいた。
フリオニールも目を細めて、頭上を見た。
まばゆいばかりの白い光は原野一面をすみずみまで照らし出し、すべての生き物の気配を圧倒している。ときおりほんの少しの虫の音が、どこからか草の陰から小さく聞こえてきた。
「――『狩人ノ月』、という呼び方があるそうだな。この月は」
静かな声を、フリオニールは少し目を見開いて振り返った。
「……そうなのか?」
そうか、君は知らなかったのか――とミンウは独りごち、「夜通し狩りができるほどに明るいからそう呼ぶのだと、何かの書物で読んだ、」と言った。
「他には、『旅ノ月』だとか『枯草ノ月』だとか、あるいはただ『天輪』と言ってもこの月の名前だそうだ」
「……知らなかった。どれも、ぴったりの名前だ」
フリオニールはその言葉を知らなかった。
何度も、何度も、何年も、秋が深まるたびに義兄とともに狩りに出かけ、夜を尽くして鹿や兎を追ったものだが、――夜じゅう狩ができるが故にその名の付いた満月の下で、その月の名も知らずに、森の中を走り回っていたのだ。
木の幹に寄り、生き物の気配を探り、地面に伏せて自分の息づかいを感じた。獲物の名前は、多くを兄から教わった。月の見方や、薄雲の流れの読み方も、義兄が教えてくれたものだった。
レオンハルトはそれを、父から教わったはずだ。なぜなら父が息子たちの一人を狩につれていくとすれば、それはたいてい、跡取り息子である長兄だったから。
父はレオンハルトと自分を――ガイが来てからは、彼も――分け隔てなく育ててくれた。理解してはいたが、……ごくわずかに義兄を羨み、妬む気持ちがよぎったことも、なくはなかった。
満月はどこまでも透明に輝いている。
義兄もこの月を、どこかで見上げているだろうか。
もしかして義兄は、この満月の名を知っていただろうか。
あるいは自分と別れてから、この月の名を知ることでもあっただろうか。
どちらでも良い、レオンハルトが無事でさえあれば、きっと一緒にまた夜の狩に出かけることもできるだろう。そうしたら、先ほどミンウが教えてくれた満月の名前を、今度は自分が教えてやろう。フリオニールはそう思った。
ざざ、と風が流れた。
ミンウの白い袖が舞い上がる。
風は彼のそばをすり抜けていき、枯色に変わり始めた背丈の高い草々を、ゆるやかに薙ぐ。
ぽつりと、ミンウは言った。
「これから、――寒くなる」
「うん」
「君たちが行く道は、もっと厳しいものになるだろう」
「うん」
「大戦艦は動き出してしまった。我々ができることも、限られてしまった」
「まだ……、まだ、終わったわけじゃない。道は、必ずあるんだ。そのためになら、俺はどこだって行く」
「そうだな……また、一緒に旅ができるといい」
「……うん」
空の真ん中に、ただ一つ。星星の輝きなど打ち消してしまい、光を放っているものは、満月だけだ。乳白色と呼ぶには甘すぎる。雪白と言ってもまだ生ぬるい。鋼銀とでも言いたいような、冷たく冴えわたる色をしたその面(おもて)を覆い隠そうとする雲は一筋もなく、闇を深く貫き通す月光が、荒涼とした原をどこまでもくまなく照らしていた。
(2011.11)