卓上から本が音を立ててなだれ落ち、ミンウは小さくため息をついた。――
アルテア地方はフィン王国の南の辺境に位置する。
その領主に封ぜられた地方貴族の、古いがしっかりとした造りの館の南翼の片隅の、10歩四方もない小部屋。それが、今のミンウの暮らす部屋だった。
パラメキア帝国の突然の蜂起と、それに伴う国王の都城からの退避。それによって唐突に国王と王女を迎えることとなったアルテア領主は、しかし黙々と仮宮の機能を整え、近衛兵と騎士団の生き残りが集える場所を開き、食糧を集めて、民の流入に対応した。亡国寸前というフィンの状況にかんがみると、物静かな、口髭の、人前に立つことを好まぬ領主は、現在の「反乱軍」の、影の立役者と言えるだろう。
その領主から提供されたミンウの居室は、夕刻になると、傾きはじめた日の、鬱金色の光が射しこんだ。
夕日はいつも、部屋の位置の関係で、一刻ほど経つと向かい合う建物の狭間に落ちていく。そして残照が建物の側面から消え果てたころに、陽光と入れ違うようにして、ミンウの居室には灯がともるのだった。
だが今日、ミンウは明かりをともす気になれず、腕を組んで卓をにらんでいた。
天を目指して高さを増していった塔が天罰によって崩された。積木遊びには果てがあった。伸びてゆこうとする木はどこかで阻害されるものだった――要は、卓上に積みあげられた本の山がついに、派手な音をたてて床に崩れ落ちたのだった。
わずかな時間の合間を縫って魔法書や本草学書を手に取ったものの、読みはじめていくらもたたないうちに作戦会議室や武器工房などから呼び出しが来たり、王女のもとに伺候せねばならなくなったりで、分厚い本が卓上に広げられたままになってしまう。それが繰り返されたためだった。
さらに彼には悪癖があった。何冊もの本を、同時期に並行して読む癖があるのだ。
そのため、卓上が栞のはさまった本だらけになってしまうのは、当然の帰結ともいえた。しかたなしに、床に落ちた本を拾い上げようと、のろりと考えたときだった。
ノックの音が背後で聞こえると同時に、フリオニールの声がした。
「――ミンウ、いるか? 昼に借りた魔法書の――」
ああ、と生返事をして振り返ると、入ってきたフリオニールが目を見開いていた。
「ミンウ……何してるんだ? こんな暗い部屋で、一人で」
「いや、……」
「とにかく、燭台はどこだ? 灯りをつけるぞ」
フリオニールはてきぱきと暖炉に火種を取りにいく。卓上の燭台に手をのばしたミンウは、そこに残っている灯心がずいぶん短くなっていることに気づいた。
蝋燭は高価だ。純粋な蜜蝋でできたものなどは、宮廷ですら儀式のときくらいしか使わないものだった。
ために、ミンウが灯すのはいつも、獣脂を固めて麻屑の芯を差しこんだ蝋燭まがいのものだ。
下町の下層民は、煤や臭いのひどい魚油を灯火に使っているという。それすらも、物流の滞りがちな現在においては決して安価とはいえなくなってしまっているのだ。避難民たちや食い詰めた農民などは、夜になればおとなしく眠るか、必要ならばなんでも燃えるものを火に投じて明るさを得ることで、なんとか日々をやりすごしている。勇敢な者が魔物の脂を灯火に使ってみようとしたが、獣脂とは違うのか全く燃えなかったとか――逆に火花が散ったとかどうだとか。
現在はそういった貧民が日々数を増しており、彼らはとにかく燃える物を手に入れようと、小枝を集めるために魔物に遭う危険を冒して野に行く。そして、夜になっても帰ってこない者が出たという報告は、半月に一度ほどの割合で聞こえてくるのだった。
現在フィンの避難先となっているアルテアは慢性的に物資が不足気味であるため、ミンウもなるべく節約していたのだが、さすがに新しい獣脂を刺して、フリオニールが持ってきた埋火を移した。
黄色い光がぼうと広がり、脂の独特の匂いが立つ。
あらためて、床になだれおちた本と、あちこちに置かれた雑多なものたちが浮かび上がった。
「……これは……」
腕を組んだままため息をついたミンウの隣で、フリオニールは困ったように眉を下げた。
「――どうしようかと思っていたところだ。そこに、君が来た」
「……すごいな、これ」
領主か宮廷の蔵書なのだろう、薄い木板に色石が埋め込まれた表紙の本が数冊、床に崩れている。その上に飾り文字が書かれた冊子が何冊も重なり落ち、その間からは細かな文字列のページがのぞいていた。
少し視線を上げれば、壁に造りつけられた棚が目に入った。そこには脈絡なく色々なものが並んでいる。
薬草を入れた何かの器が大小さまざま置いてあり、なぜか細首フラスコが数本あり、おそらく街の子供にもらったのだろう布人形があり、もちろんきっちり並べられた本があり、トブールにでも押し付けられたのだろう武器の柄の試作品があり、本が崩れ落ちた時に引っかかったとみえる小物入れの箱から中身が飛び出しており、フィンとその周辺を描いた地図が壁にかけてあり――
フリオニールはこめかみを押さえてあたりを見回し、ため息をついた。
「……とにかく――この本を棚におさめないか? ミンウ。俺、昼間にあなたが言っていた回復魔法(ケアル)の詠唱について聞きたかったんだけど……」
「ああ、そうだな。魔法の話はあとでちゃんと聞こう――まずは床に落ちた本を卓に戻してくれないか、私は棚の隙間を開けてこよう」
「あんまり場所、開けられそうに見えないぞ……」
「まあ、……なんとかせねばな」
「うん」
フリオニールは、肩に巻きつけていたストールを椅子に置いてシャツの袖をまくった。
二人が動くと、燭台の火はゆらりとゆれて、壁の影が蜘蛛のように踊った。
フリオニールは黙々と本を拾っては卓に積み上げている。
ミンウは、フリオニールから受け取った本を棚に戻しているのだが、それが問題だった。
どれもが読みさしの本のため、栞を差しなおしては棚に入れるのだが、ページを確認するために本をひろげるとどうしても文字の続きをを追いはじめてしまうのだ。
そしてそのたびに、
「そうか……この詠唱方法の引用はあの伝承からきていたのか。――すまないがフリオニール、古代ミシディア語辞典を出してくれないか、卓の真ん中あたりに積んであったはずだ――」
などと言っては、
「だめだって、ミンウ」
と止められている。
そんなやりとりが何回か繰り返されたところで、フリオニールは匙を投げたようだった。
「……こりゃあ俺、手伝えないな。わかった、俺はその本を音読するよ。あなたは片付けに集中してくれ」
「いや、本の仕分けを――違うな、君はそこに座って……」
「ミンウ」
「――そうだな、頼む」
窓の外はすでに、しっとりと藍色に沈んでいる。
フリオニールは窓際に座り、本を広げた。燭台を引き寄せると、小さな炎はジッと音を立てて伸縮する。文章を2、3行流し見たところで、すこし顔をしかめた。
「……難しいな」
「ゆっくりでいい」
フリオニールは訥々と、ところどころつっかえながら読み始めた。
耳から入ってくる情報があると、気をひかれて手が止まりそうなことはあるものの、目が手元の本にひきとめられてしまうことは少なくなる。黙々と作業を続けた結果、卓面がすっかり現れた。本の形にうっすらと埃の跡が残っていたが、簡単に払って終わったことにする。
ミンウは動きを止めて振り返った。それに気づいてフリオニールは顔を上げる、二人は一緒に大きくふうと息をついた。未だ開け放たれたままの窓から夜風がゆらりと舞い込んできて、フリオニールは少し首をすくめる。仰ぎ見れば、秋の星座が空の真ん中に上りはじめていた。
「――冷える、な」
「……ああ。何か飲むか?」
手早く暖炉の埋火をかきたてて、ミンウは薬缶を火に当てた。
外を眺めていたフリオニールは、ん、と返事をすると窓を閉め、ストールを肩に引っかける。
「それで、何だったかな? フリオニール。回復(ケアル)の詠唱――だったか」
「そうなんだ、覚えたは覚えたんだけど……、うまく詠唱できないところがあって」
ふむ、と顎に手をやり、ミンウは先を促した。
「試しに詠唱してみろ」
ゆっくりと、フリオニールは古代語をならべはじめた。
回復(ケアル)は、それほど込み入った詠唱を必要とする魔法ではない。古代語の単語を3つ並べて唱え、「白い女神の手よ、回復せよ」と締めくくる。だがその3つめの単語が複雑なために、フリオニールは困惑しているようだった。
湯の沸く音がした。
ミンウは棚の奥から茶碗を取り出すと、香草をつまみ入れ、熱湯を注ぎこんで蓋をした。柔らかい匂いが、ほのかに漂い始める。フリオニールは両手で器を受取り、相手を見上げた。ミンウは考えながら、椅子に腰をおろす。難しい、と銀髪の青年が言った単語は、発音や抑揚が問題なわけではないはずだ。……
「……そうだな、言葉の意味がわかれば、そう難しくはないよ」
白魔道師は覆面をはずすと茶に口をつけ、ゆっくりと、紡いだ。
「その、3つめの単語は、正確には――『生きるものの、はかなく強く燃えさかる命の炎』ほどの意味だ」
心に燃え上がる炎を思い浮かべて、癒しの力を身にまとうのだ。
そう言った師を、少し目を瞠って見やったフリオニールは、「ああ、そうなのか」とつぶやいて、小さく笑った。片付けたばかりの棚に手をのばして何冊かの本を取り出そうとしていたミンウを、軽く手をあげて止める。
「昼に教えてもらったときは、あなたはちょっと言い淀んで、『生命力』と言ったし――なんだか変な感じがしていたんだ。少しだけ、意味が合わないように思って」
「すまない。……意味を言い始めると長かったのでね、君に詠唱を覚えさせることを優先させてしまった」
「いや、いいんだ……。やっぱり、詳しく聞いてよかった。うまくいきそうな気がする」
燭台の灯が、また小さく、ジ、と音を立てて黄色くゆらめいた。
再び詠唱をはじめたフリオニールの声に耳を傾け、ミンウはゆっくり目を閉じる。
その言葉は、多くの白魔法の詠唱によみこまれている重要なものだ。簡単な説明にひっかかりを覚えたということは、おそらく魔法の条理のおおもとに、無意識のうちに触れたということだろう。
――そうだ、この話を知っているか。
まだ世界に国も城もなかったころ、今のカシュオーンのあたりに空から星が落ちた。一人の男がその燃えたぎる星から炎を取り、祭壇を作って祀ったという。――
ある者は言う。その炎から多くの生き物が生まれたのだと。
またある者は言う。炎は土を産み、生命の揺籃である大地をつくるものであると。
命を炎になぞらえるのは、理由のあることなのだ。君は知っているだろうか。――
詠唱が成功した。上向けたフリオニールの双掌に白い光が淡くあふれたのを見て、ミンウは目を細めて薄く微笑む。
うなずいてみせる白魔道師に、フリオニールは歯を見せて笑った。
(2011.12.初頭)