別館「滄ノ蒼」

4月5日

 土と水の匂いがした。
 獣が原の草むらは、どこまで行ってもガウにとっては庭のようなものだ。
 どんな植物が多いか、それがどんな風に生えているか、どんな風にくぼ地や水脈が現れるか、そこにどんな獣が伏しているか。知識として覚えているというよりも、体が覚えている。
 走り、飛び越え、草をかき分けて進む。
 ひたすらに、まっすぐ。感覚をとぎすませて、できる限り素早く。
 草の生えかたを見つめて曲がり、土のにおいがすこし変わったら、そこはもう獣たちが丸い巣を作っているあたりだ。卵や仔兎を蹴りとばさないよう、つま先立って静かに進まなければならない。
 伸び始めたばかりの草のにおいが、日の光に照らされてやわらかく立ちのぼった。目の前の草の先には一匹、てんとう虫が止まって羽を開閉させている。ガウが進む方向を変えて草をかきわけると、てんとう虫はあわてて飛び上がった。

 ――そうだガウ、ほら、この地図のこの場所だ、ここに行ってごらん!

 うう、とガウはうなった。
 この地図をのぞき込みながら指さしてくれたロックの、その指先がどこを示していたか思い浮かべ、巻紙を広げようとした。首から下がっている紐の先のそれ を取ろうとして、ぱたぱたと身体を震わせる。紐の輪から体を抜こうとしてうまくいかず、わしゃわしゃの髪にひっかかってしまった紐を、面倒になってえい やっと引きちぎった。
 巻紙は古びていて、茶色くなった紙特有の、甘いようなほこりっぽい匂いがまだまとわりついている。きっとこの宝の地図はずいぶん長い間、あまり人のこない地下室の奥の、石造りの床のすきまか頑丈な箱の中にでもしまわれていたのだろう。
 いまだに、ガウは指先の細かい仕草は苦手だ。
 ぎこちなく地図をひらいていく。古びて茶色くなった、けど頑丈そうな紙に、ところどころにじんだインクで地図が描かれていた。上手いのか下手なのか判断 しがたい、よろよろした線だが、そこそこ土地勘のある者ならば、なんとか獣が原を描いたものだとわかるだろう。おそらく採掘技師やトレジャーハンターなど と違って地図の素養のない、素人の手によるもののようだった。

 まず目につくのは、たどたどしく引かれた海岸線――と思しきななめの線。それから、よろよろ引かれた山と思われる印、水の流れであろう印。あとはぽつり ぽつりと、乱雑に書きなぐられた×印や丸印、よくわからないぎざぎざの短線。隅の方に書きこまれたいくつかの文字――これも上手い字か下手な字か判断しが たいが、何かの暗号に見えなくもない――、それに続けて、本来贈られる相手だったのだろう宛名とメッセージが書かれている。
 それらをひとつひとつ指し示しながら、ロックは「この文字列は暗号で、ハントする時期を指定してるんだ」「この×印はたぶん木と岩のどっちか」「こっちの印は崖か小川か獣道な」などと読みといてみせた。
「――で、こっちが東に当たるからさ、獣が原の入り口はこのへんなわけ」
 言いながら、鉛筆を取り出した革手袋の手が印を書きこむ。指し示す先を見つめながら、ガウは獣が原の土の傾斜や水のにおいを思い起こし、想像の中で草をかき分け、走った。
「……これ、水がしみ出してるところと岩のガケだ。進めないぞ」
 妙な形の印と、かぎ裂きのように線を重ねた印のところを指さしてガウが言うと、ロックは驚いた顔をして、「わかるのか?」と言った。
「そうか、お前は獣が原をすみからすみまで知ってるんだな……すごいぞガウ! よし、こっちはどうだ? この印らへんはどうなってる?」
 笑ってガウの頭をわしわし撫でると、ロックは次の謎の印を指さした。

 そんなふうに二人が地図の上で頭を向かい合わせていたのは、セリスの誕生祝いの席だった。楽しげにざわつく広間の隅のソファに二人は場所を占め、この地図を広げて額をつきあわせ、地図の印を読みといていたのだ。
 ときおり冒険屋は顔をあげて、セリスの方を見やった。彼女は珍しく髪を結いあげて、ティナに手を取られ、あでやかに薄く頬を染めていた。そしてこちらに 気づく前に、ロックの方が視線を手元に落とす。その様子を見ながら、大人の態度はむずかしいな、などとガウは思っていた。
 しばらく、地図を指し示してはガウがその地形を言い当てる。そんなやり取りを繰り返したところで、ロックは頭の後ろで手を組んでソファにひっくり返り、言った。
「……こりゃもう、この地図もお宝もお前のだよ、ガウ」
 まいったなー、トレジャーハンターの名折れじゃねコレ、と軽い口調でぼやき、ロックは地図を丸めてガウに差し出した。
「はい。――あ、紐つけてやるよ」
 どこからか革紐をとりだして手際よく巻紙の端に通し、ガウの首にかけてくれる。
「これ、おれにくれるのか? ――お宝、セリスとさがさなくていいのか?」
 ガウが見上げてそう問うと、ロックは耳の端を赤くして向き直った。
 皆に囲まれて談笑しているらしきセリスは、困ったように笑って首を振ったりし、ときおり感嘆の口笛を飛ばされている。
「この地図読みといたの、お前じゃん。だからお前がハントする権利があるんだよ」
「暗号といたのは、ロックだぞ?」
「あー……これ、そんなに大した暗号ってほどでもないぜ、道具屋の親父ですらなんとなくわかってた位だし」
「どういうことだ? なに、書いてある?」
「簡単なアナグラムだよ。3字ごとにこう、入れ替えると……、ほら、『プリムラが盛りを過ぎたとき』になるんだ」
「プリムラってなんだ?」
「花の名前だ。だいたいは3月の後半に咲くんだぜ」
「くわしいんだな、ロック」
「あー……、うん、たまたまね、知ってた」
 もういちど、なんとなくセリスのほうに視線を送る。それに気づいたのか、薄い青碧が少し不思議そうに目を上げた。ふいと顔をそらすと、ロックは半ば強引に話題を変えた。
「そういやお前、4月の初めが誕生日だってカイエンが言ってたよな。それっくらいに行くとちょうどいいってことだな、きっと」
「わかった。おれのたんじょうびが、すぎたら行く」
「そうだな。……あー、ただその条件、結構きつくってさ。春のその時期ってさ、お前知ってるだろ? 獣たちの気がえらい荒くなってさ、よそ者には獣が原に 入り込むことなんてたぶん無理なんだよな、相当危ないわけ。俺もちょっと行ってみたことあるんだけどさ、ま、なんつうか――」
 いいかけて、ロックは少し口をへの字にした。察するに、結構な目にあったのだろう。
「きっとお前じゃなきゃだめなんだ。獣が原で育って、あそこを好きに駆けまわれるお前じゃなきゃ」
 ロックはまたガウの頭をわしわし撫でると、笑顔になってすこし背をかがめ、視線をあわせた。
「だからお前、このお宝探しに行くんだぜ、で、何が埋まってたか教えてくれ。俺も誰にも言わない。男同士の約束だぞ?」
「わかった。やくそくだな」
 にっと笑って拳をあわせると、いたずらの相談でもするように、再び二人は額を寄せあってぼそぼそ話し合った。横を通ったリルムがちょっと変な顔をして二人を見やったが、割り込むこともなく通り過ぎる。
「これ、『ろく』か?」
「そうそう。……たぶん前に持ってた奴が書きこんだんだろうな、この数字」
 最近ようやく書き覚えた数字を紙の裏の隅にみつけて、ゆっくりガウは読んでいく。黒い飛空艇の住人になったころは、知っている数といえば「いち、に、た くさん」だったし、先だって二度目にマッシュが連れ帰ってきたときは、一目見たモンスターの群れを、「十二匹だ!」とすぐに言い当てるものの数字を書くこ とができなかった。ガウは目覚ましい進歩を遂げているといえるだろう。
「こっちのメッセージは、なんてかいてあるんだ? 読んでくれ」
「そうだなあ……えっと、」
 ――



 地図を持ち上げ、ながめて、ガウは小さく、うう、とうなった。
 月があける前から、ずっとそわそわしていた。この一週間は尻がおちつかず、もぞもぞ動き回る栗鼠でも後ろにしょっているようだった。ロックも一緒にくればよかったのに。そうすればきっともっと、お宝探しはおもしろかっただろう。
 そう思って、ガウはもう一度、うう、とうなる。
 伸び始めの草に日差しがあたっていた。光をうけた葉の色は鮮やかで、影の部分は薄い紫色になっており、地面の上ではそれらの色がちらちら混ざり合ってい た。かさこそ葉の裏側を這っている虫の気配、仔を背にした小獣がぴんと耳を立てているらしき気配。彼らが動き回り、やわらかくなった土は黒く水気をふくみ はじめ、どことなくうきうきしている。
 走り出す。しばらく草をかき分けていった。だが手に持った巻紙でどうにも走りにくい。くわえ、四つ足になって駆けていく。
 地図の印は、すぐ近くの大木の下を指している。
 そのあたりはガウには覚えがあった。崩れた斜面をまわりこんで、小川を越えたところだ。
 小川はとび越えられる幅ではないので、泳ぎ渡らなければならないだろう。水はもう、少しは温くなっているだろうか。小川といっても冬には薄氷が張り、ことによると水棲モンスターのまだ小さな奴が流れの中を走ったりするのだ。

 木の根元に至った。草のあまりはえていないところを選んで、そこらの枯れ枝を拾って突き立てる。湿った土の匂いが、強く立ちのぼった。
 白い小さな蝶が一羽、ガウの鼻先をひらひら過ぎていく。
 いつもなら飛びかかるところだが、今は巻紙をくわえている上に、枯れ枝で土を掘り返すことが最重要だった。地表の奥の土は、思ったよりも冷たくて、堅い。
 なにかを、掘り当てた。
 そう思い、手を突っ込んでつかみだそうとした瞬間、淡い光が立ちのぼった。
 それはまっすぐに空へ向かっていく。手を伸ばしてもつかめなかった。
 そして光は、拡散した。

 ほのかに香る風。
 かすかな虫の羽音。
 鼻先をかすめた空気が、うずくような暖かさを体の奥から呼び起こす。
 花。花が。
 根元ばかり見ていた大木は、気づけば枝いっぱいに花をつけていた。
 そして見上げれば。
 立ちあがってふり仰げば、ごく浅い海の色をした空。
 ぽかんと上を見上げたガウの視界いっぱいに、広い広い春の青空があった。
 水のない大海原のような青の濃淡。その表面を、ちらちらと頭上の花びらが舞い飛んでいった。
 暖かな日の光、ほころんだ土の匂い、小さな花をつけた草の匂い。それを運ぶ風が、頬に触れるくすぐったさ。

――プリムラが盛りを過ぎたころ、贈ろう、花の季節に生まれてくるだろうわが子に。
  お前が生まれるまで指折り日を数え、お前が生まれたら一緒に誕生日を数えよう――

 贈られたのは、明るく透明な空の色と。
 その面を舞っていく花と、風と。
 そして気づいた。
 ガウは今まで、地面ばかり見ていて、あまり空を見上げたことなどなかった。草の実や虫や、伏した獣を追いかけてばかりいた。日が照っていることも雨が降っていることも、草の表面の色や水気の匂いを感じ取れば、それで事足りていたから。
 ――見上げろ。
 空を見上げてみろ。
 足もとに目を落とすだけでなく、歩いて行け、顔を上げて。

 ゆるやかに風が吹いた。
 ガウの頭上の大木の、こぼれそうなほどに満開の淡い色がはたはたと揺れ、花びらを散らし続けていた。

 

 

 

「水なき空に波ぞたちける」