洞窟の奥が、一族のすみかだった。
モーグリ族は夜目のきくもので、だからほとんど日の射さない北国の、さらに岩壁の奥であっても、大して皆、不便だなどと思いもしなかった。ときどき雪が やんで雲が割れ、つめたい青空から降りそそぐ鋭い日光が洞窟までも射しこんでくると、むしろ眩しさに目を細め、若者たちは口々に「クポー…」と鳴きかわし ながら、各自の武器を抱えて、訓練に飛び出して行ったものだった。
ナルシェの春夏は短かった。
南の斜面は雪が消えても、岩陰には固く凍りついた雪の塊が根を張っている。日なたとの境目はいつも、融けだした氷水で湿っていて、モーグリたちは足跡をつけないように、小さな翼をはためかせてそこをとび越えた。
少し広くなっている岩陰の原で、いつもモグたちは槍などを訓練した。
あたたかくてつめたい、儚い季節の日差しが岩壁を照らしていて、蔓性の植物が時間を惜しむように先を伸ばし、いくつも淡い紫の花房を垂らした。
ちょうどその頃はモグの誕生日で、モルルをはじめ、みんなが紫の花房を摘んで、モグに下げてくれた。
「この花の色はモグの毛皮に映えるクポねぇ」
「本当にぴったり似あうクポよ」
「モルルにも花をつけたらどうだクポ? 一緒に並んだら花束みたいだクポ」
「クポー……」
かすかな視線を感じて振り返った。
禍々しい感じはしなかった。人間でもないようだった。ただ、洞窟に住まう魔物の一種かもしれないと、そう思った。
たいていの場合、魔物のたぐいはモーグリたちの広場に近づいてなどこないものだったが、それ以降ときどき、洞穴の隙間やこごった闇の向こうに気配を感じるようになった。
特に危険を感じたことがあるわけではない。
けど、何か言いたげでもあり、珍しげでもあり、不思議に思って見返すと気配を消してしまうので、なんだろう、と思いながらもすぐに忘れた。
今なら、もしかしたらあれは現在の自分の「子分」であるところの異形の生物だったのかもしれないと、そう思う。
あの大きな体を縮めて、明るい小さな岩の隙間を見上げていたのかもしれない。もしかしたら、仲間とにぎやかに立ち騒ぐモグを、うらやましく見やっていたのかもしれない。
――世界が壊れて、今はソイツだけが残っている。
モグのまわりを囲む多くの同種族は見当たらなくなって、
モグを肩の上に担ぎあげて同じ方向を眺める巨大な弟分と、
あとは……雑多な人間たちが十人ほど。それが、今のモグの仲間だった。
「クポー……」
重く垂れこめた赤錆色の雲の気配をふりきって、炭鉱をさらに奥深くへ。
凍った土壁を越えて、下って曲がって、ずっと奥へ、人間の来ない所まで。
小さな翼をはためかせて、ぬるんだ土に足跡をつけないように。
ある地点からは速度を落として、ひとつひとつ、洞窟のくぼみをのぞきこんでいく。白い毛皮は暗い中でもぼんやり明るい影として浮かび上がっていた。
ただひとり。
ナルシェに停泊するたび、モグはそこに行く。
季節は今も、蔓が先を伸ばすはずの時期で、けれど赤く濁った空の色がのしかかってくる広場のこごった空気はそれを許さず、すべてを硬直させている。
そして。
やはり、生きているものの気配は、そこになかった。
人間も。子分の同類も。白い毛皮のずんぐりした仲間たちも。
ときどき、這うものの気配がモグの後ろ姿を窺って、ぞろりと去っていく。
「クポー……」
呼ぶともなく呼ぶ。
はためかせるともなくはためかせた翼は、風を起こす前に閉じられた。
背後に、ざわ、と気配を感じてはっとしたのは一瞬だった。振り返るまでもなく、モグを窺い見るような雰囲気がなく、なにか大きなモノがまっすぐこちらに近づいてきている。そう、すぐにわかった。
「おーうモグ、やっぱりここにいたかぁ!」
場違いなほど明るい声をあげてのこのこやってきたのは、沙漠の双子の片割れだ。
「飛空艇の中はもう準備万端ってとこだ。さて戻った戻った、遅れすぎると料理が煮詰まっちまう」
言いながら、太い腕を頭の後ろで組む。そして伸びだかあくびだか、かふぅ、というような妙な声を出した。
「今回の料理担当はロックとガウなんだぜ。何が出てくるか楽しみな組み合わせだよな」
にしても、いつの間にかなんか仲良くなってるよなーあの二人、お子様どうしで気が合うんだろとかセッツァーは言うけどさ、などと楽しげにマッシュは言った。
「ロックはガウのこと、弟みたいに思ってるのかもな。意外と誰ともつるまないところのある奴だったけど、ガウに懐かれたのはいいみたいだ」
実際、マッシュの言うとおりだった。先月のガウの誕生祝いでは、主賓である少年と一番話していたのはロックだったように思う。正確には、何やらそわそわ した様子の――何を思って気もそぞろなのか――ガウは席を立ってはロックにまとわりつき、ロックはそんなガウをしばらくじゃらしたり、たしなめる様子で座 りなおさせたりしていた。
「マッシュ……」
「ん?」
表情の読めない細い目を暗闇の向こうにあてたまま、モグは呼んだ。
「やっぱり、……みつからないクポ」
「……他のモーグリたちか」
マッシュは静かに腕を組んだ。
広場は空虚だ。どこもかしこも往時の面影をなくしてしまったこの世界だが、風の音すら聞こえず、ひょろりとわずかに伸びた草はゆらめきもしない、元モーグリ族の集会所はひときわ寒々しく感じられた。
「ボク、誕生日をモルルたちと――みんなと離れて過ごすのは初めてだクポ」
「……そうか」
「モーグリ族の住処を飛び出して来て、そのまんまブラックジャックに乗っちゃったんだクポ。けど……、まさか世界が引き裂かれて、自分の元いた場所まで無くなってしまうなんて思わなかったんだクポよ……」
「……そうだな」
どこに行っても見つからないなんてな、俺もそうだ、とマッシュは言った。
彼の場合はフィガロの沙漠、あるいはそれ以上に、行方不明になった師匠を思い浮かべているのだろう。愛妻家であり恐妻家でもある師匠は、間違いなく奥方と一緒にいるものと思っていたのだが、その予想が裏切られてずいぶん経つらしい。
ふいにモンクは、ふりきるように明るい声を出す。
「あー…そうだった。モグ、ちょうど見せたいもんがあるんだよ」
「なんだクポ?」
「まぁまぁ、戻り道の途中だからさ。行こうぜ」
マッシュはモーグリの背中を押していく。
「ここだここ。モグ、あの奥。横道が交わってるあたり、よーく見てみな」
言って、マッシュは地面に手をつき、向うをうかがう虎のように姿勢を低めた。
彼らが見つめる先の洞窟の奥は、少し水のたまっている気配が揺れていて、やや濁った闇がわだかまっていた。獲物を狙うようなマッシュの姿勢はそれに妙に似合う。
モグも彼には珍しい、飛びかかる寸前の姿勢をつくってそちらを見る。糸のような目なので表情は読めないが、人間でいえば青年のモグは、鋭くいい面構えになっているのだろう。
「!……クポ! ……」
「どうだこれ? お前の仲間が移動した跡じゃないか? しばらく前みたいだけどさ……」
「間違いなくモーグリ族の夏毛だクポ! こんな、こんなに洞窟の端近くのところで……」
「だろ? ……だからさ」
マッシュのごつい手が伸びて、モグの毛並みをごりごりなでた。
「きっと、みんな生きてるって。移動しながら暮らしてるせいで見つかんないんだって」
「……そうだクポね」
「今年はもう間に合わなかったけど、来年はきっといつもの誕生日みたいに、みんな揃って祝ってくれるって。――だからさ」
今年は俺達の祝いで勘弁してくれよ、とマッシュはウインクした。
ごつい手が、もういちど白い毛並みをごりごりかきまわす。そのせいで、美しく流れていた毛はずいぶんくしゃくしゃになってしまった。
「クポー……」
小さく鳴いたモグの表情は相変わらず読めない。
だが、背中の小さな羽根をぱたつかせているので、きっと笑っているのだろう。
「過ぎがてにのみ人の見るらむ」