別館「滄ノ蒼」

天泣

 

 なんで、今になって青空なんか見えているんだろう。
 厚い厚い灰色の、気の滅入るような色の雲が少しだけ切れて、天の薄い青が申し訳なさそうに、そっと地面を覗き込んでいる。
 その頼りなげな色に、そういえば慣れてしまっていたのか、と思う。
 どこに居たって見上げれば空はいつも薄暗くて変に赤っぽく、空気は湿り気を失って冷え冷えとしていた。そんな記憶しかなかったわけで、気づけばかなりの時が経つうちに、いつの間にかそれに慣れてしまっていたのか、と、思う。

 空がにわかにかき曇り、大きな轟音が鳴り響いたあの時から、俺の時間は止まっていた。
 骨がきしむような音を上げてブラックジャックが引き裂かれ、散り散りに吹っ飛ばされたあの日から、俺だけじゃない、みんなの時間は止まっていたんだろう。

 崩壊は一瞬だった。あまりにもあっという間で、遠ざかっていく金の髪と碧の目をほとんど視界にとらえていられなかった。
 すり傷だらけで目覚めたときには、離してしまった手の熱さを思って、足元の地面が無くなったような感覚がした。悔やんでも悔やみきれなかった。
 何度思い出しても、背筋に冷たい虫が這う。
 ―あんな思いは、もう二度としたくない。

 今、そっと横を見れば、ようやくまたこの手で触れることの叶う白い肌の持ち主がそこにいて、吹き抜ける風に金の髪を弄られながら、じっと崖下に視線を落としている。
 その場所―世界中から集められてうずたかく積もった瓦礫の塊は、雲の切れ間からのぞく晴空の光に照らされて黒々とした影となり、禍々しいというよりもむしろ、なぜかひどく脆弱そうに見える。
 おそらくそこが最後の戦いの舞台となるであろう場所を青空の下に眺めているなんて、少しばかり間の抜けた絵面では、ある。
 彼女は口を開く。
「みんなで無事に、あそこから出てこられたら―全てが終わるのね」
「そうだな、みんなで―無事に」
 無事に。
 いや、今までだって相当苛烈な状況だったぜ?それでみんななんとか無事だったんだからさ、きっと大丈夫さ。わざと明るく言えば、そうね、今までだってね、と彼女は頷く。

 そうして見つめる彼女の横顔は、ひどく無防備で愛らしいと思う。
 久方ぶりの明るい光が射して、何本も天使の梯子が荒野に降り注ぐ。
 潤んだ瞳で見つめている彼女の横顔は、ひどくあどけなくて綺麗だと思う。

 寒いし戻ろう、そう言うべきなのだろうけど何となく言い出したくない。
 ―彼女は、あの塔の最上階にいる「彼」のことを思っているんだろうか。
 それともあの塔から出られたときの、そのあとのことを考えているんだろうか。
 こうして無言のまま二人きり、というのは、とても心地良くてどうにもばつが悪くて狂おしいほど触れたくて触れたくて堪らなくなって。

 ふわりとなびくその髪は、やはりとても柔らかそうだと思う。
 そのきめの細かい白い肌は、やはりとても温かそうだと思う。
 何か言いたげに動きかけた唇は、やはりとても瑞々しく甘そうだと思う。

「…彼は、…」
「ケフカは―」
「何?」
「ケフカは何がしたいんだろう」
「彼処で」
「あの天辺で」
「何を―」
「何を待っているんだろう」
「誰を待っているんだろう」
「世界中から瓦礫を集めて」

 …そんな目をして他の男のことなんか言うなよ、
 ああそういえば、君はあの塔の主をよく知っているのだったっけ。
 ああそういえば、君の淡い色の髪は、日の光になんとよく輝いているんだろう。
 俺はどれ程の間、その柔らかな反射を凝視していたんだろうか、眩しさに目が堪えられなくなって眼下の薄暗い影に視線を落としたその刹那。青空からさしこむ光に照らされて、さあっと降りそそいできたのは、一瞬の微かな通り雨。
「ロック…」
 今、雨が降ったの?青空なのに。彼女は驚いた顔をこちらに向ける。
「…ああ、雨だったよな」
 その表情に、胸の奥底が鈍くキリ、と突かれる。
 初めて会ったときは、少しびっくりしたように目を見開いたその表情を、レイチェルに生き写しだと思ったのだけど、改めて見るとそこまで似ているわけでもないなあと、…
 …ごめん、俺はどれほど君を縛ってしまっていたんだろう。

 彼女は雨に濡れた額を拭い、不思議そうに空を眺めると、再び視線を黒々とした塔に転じる。
 そして吹き抜ける風に目を細め、頬にかかる髪をはらう。
 雲の層はいつのまにか、青空ののぞく破れ目をふさぎつつあって、降り注ぐ光がふと弱くなる。
 それに照らされていた彼女の横顔はやっぱりどうしようもなく無防備で
 どこまでもあどけなくて

 堪らなくなって

「…セリス」
 何?と振り向いた、細い腕を掴んで引き寄せ、抱きしめた。
 とくとくと鼓動、息遣い、これほど頬を寄せ合ってようやく、過去への執着を振り切れそうに思える。
 俺はずっと一人じゃなかったんだ、と、そう思える。

 一瞬、灰色の雲が再び切れて、鮮やかな白金の光が、この指がかき分ける金髪を撫でていった。
 天が流したばかりの涙に、セリス全体がしっとりと湿っている。


 ―その長い髪は、やはりとても温かくて
 そのきめの細かい白い肌は、やはりとても柔らかくて
 その、わななく桜色の唇は、やはり、とても、―

(2007.12)