二度目だった。
熱い唇の感覚に息をすることすらためらわれ、セリスは身を固くする。
一度目よりもずっと長く、気が遠くなるほどの、おそらく一瞬の接触。
きつく瞑ったまぶたには、そのうちに涙すら滲む。
触れそうで触れない、ロックの頬の温度を自分の頬で感じる。
ああこのひとの唇は皮膚が薄いんだなあ、などと、ぼんやりと思う。
不意に、ちろりと前歯の隙間をすくいとられて、大げさなほど肩をはねさせてしまう。
肩に触れている大きな手に、ぐい、と力がこもる。あらがうすべを、彼女は知らない。
なのに、けれど、ロックの少し乾いた肌にとどまっていた太陽の温度は、セリスに侵入してくる間もない。肩にあった手がおろされ、音もたてずに唇が離れて、顔が遠ざかる。そして彼は、苦しげに目をふせ、つぶやいた。
「……ごめん」
そんなことを言いながら頭をなでてくれるなんて、なんて卑怯なんだろう。
辺境の島の、碧色の海には儚い黄金色の陽が照り映え、さあさあと鳴り渡る。
茶色に近い砂色の髪が光って揺れる。手を伸ばせば届く所で。金の髪がまばゆく輝き、風に流れる。けれどそこから離された彼の手にまで、もう届くことはない。
今しがたまで触れ合っていたはずなのに、今はすでに、短剣一本分の距離が遠かった。
*
魔大陸浮上。
非常事態をうけて、少しの議論の末、飛空艇に乗り組む一行は魔大陸に降り立つ日を決めた。
それまでは準備として、アイテムと習得魔法を充実させるため、戦闘と情報収集をこなしつつ、いくつかの街に寄っておく。迅速に、しかし慎重に。合理的に、かつ堅実に。
その方向性を受けて賭博師がブラックジャックを向けたのは、このニケアの町だった。輸送船の中継地であり、つまり物流と情報の交差点であるこの町ならば、世界中津津浦浦の動向をつかむことができると踏んだのだろう。
始まろうとする冒険に気分を沸きたたせ、パーティの割り振りや武器の手入れに立ち歩き、あるいは酒を酌み交わしたり小さな賭けをしたりして騒ぐ他の面々。
それを尻目に、セリスはロックの姿の見える場所――つまり、皆の集まっている場所――から逃げ回っていた。今日は、いつでも出かけられるよう荷物をまとめることを口実に、割り振られた部屋に閉じこもっている。
彼と目があったら、と思うだけで息が詰まる。
なのに彼の姿の見えるところにいたい。
否、いたくない。
どんな顔をして彼の前にいたらいいのかわからない。
彼の腰に下がっているチェーンだかアクセサリだかが触れあうかすかな音にすらびくりとする。
しまいには、それが近づいてきて発せられる仲間とのやり取りや、軽やかな笑い声すら憎らしく思えてきてしまう。八つ当たりじみた感情に、自分でいやになる。
(私が目の前にいても、何とも、思ってないの……?)
何事もなかったように冷静にふるまっているのだ、とは、どこかで理解している。あるいは、キスなんて恋未満の感情でできるものかもしれない、とも思う。
けれどそれができるロックに、セリス自身との経験の差を嫌というほど感じてしまって。……
……夜風に当たろう。
セリスは立ちあがると、抱きしめていたクッションを投げ出し、宿をぬけだした。
広場を突っ切った先は海がみはらせる高台のようになっており、町の下半分がよく見えた。
涼しげで穏やかな潮の音が、闇の中に響きわたる。
昼間であれば列をなす隊商や露天売りのよばわる声がさざめくこの町も、今の時刻は密やかに空気だけが流れていた。辻占がひっそりと建物の陰に座っており、所々にともるガス灯が石畳にうろんな光を投げている。騒がしいのは、酒楼と娼館が立ち並ぶ、眼下の一画だけだ。
手すりにもたれながら、セリスは自分の両頬を、ぱんぱんと軽く叩いた。
(……明日、だ。明日からは)
明日から、また以前と同じような、仲間たちとの旅が始まる。それまでには、調子を取り戻さなければならない。海風を頬に感じるのは、今夜が最後だろう。
いや、以前とは違うところもある。
いにしえの魔導の知識に長じた老人と、その孫として育った少女、一行には先日からその二人が加わっている。二人とも、魔力をエネルギーとしてではなく、この世ならぬ生き物の形に顕現させて動かす技を持っているのだという。
(聞いた限りでは、あの二人の技は、私の魔導とは違う)
隔絶された隠れ里と言っていいサマサの村で継承されてきた魔導は、千年前のものとは少しばかり様相を変え、当然ながら幻獣の力を人工的に体に取り込んで得たセリスの――帝国が見つけた方法の――魔導と形式が違っていてもおかしくはない。
明日からはその二人とともにパーティを組み、彼らの技を目の当たりにする機会もあるだろう。
いずれにせよ、一名を減らし、二名を増やして離陸した地、サマサは、今までに見たことのないくらいまばゆい海の見える土地だった。白い砂浜から深碧色の海の深みに至るまで、やわらかな色のグラデーション。それをブラックジャックから見下ろしたとき、確かにこの色の氾濫は、絵描きの少女がふるう筆に宿るにふさわしい、と思った。
そこまでとりとめなく考えを及ばせ、頬にまた、かっと血が上った。
サマサを出立した日、その砂浜、だったのだ。あれ、は。
――陽を受けて輝く、凪いだ海。
乾いた風、眼を刺すような光の反射。
くっきりと暗い陰になった、飛空挺の停泊した崖の下。
たった今まで直射日光を浴びていた彼の唇に残っていた、日の光の温度。
「ごめん」といって身を離した彼の、後悔したような、そのくせ焼けつくような視線――
(また……思い出してしまった)
セリスは頭をふって、暖かな感触の記憶を振り払い、自分で肩を抱きしめた。ゆるい潮風が、彼女の髪をなぶって淡く光らせる。
(……馬鹿)
夜に紛れて流れていった風は、ひどく冷たかった。
*
「行っけええ!」
少女の筆先が描き出した『コピー』は、唸りをあげてバグの群れに向かって飛んでいく。幻の生き物のものと思えない羽音が、森の空気を震わせた。
突然襲いかかってきた同類の姿に、バグの群れは混乱を極めた。不気味な統率をとって編隊飛行し、セリスたちを取り囲んだはずだが、今や互いにぶつかりあい、闇雲に飛びまわっている。
「はっ!」
カイエンの刀身が、モンスターの一匹を抜き打ちに切り捨てた。セリスは群れをななめに駆け、二匹まとめて薙ぎ払った。
「ちぃっ……!」
襲いかかってきた針の尻尾にかすめられ、盛大に舌打ちしたロックは、返す短刀をそいつの胴体に突き立てる。軽く横に跳び、別の個体の羽を真ん中から裂いた。次の瞬間、反対側から刀が閃き、ふらふら飛んで行こうとしたそれを両断する。
駆け戻ってきたセリスはリルムと背中合わせになった。それぞれの前に飛んできたモンスターを各自牽制しつつ、魔法の詠唱を完成させていく。二人はちらりと視線をかわし、うなずきあった。
「「――悲嘆の霧氷よ――!」」
青白い光が詠唱者二人の掌から発せられた。凍りついた霧が、バグの群れを包みこむ。
白い塊と化したモンスターたちは、ぼたぼた音を立てて地面に落ちていった。
ほっと息をついて、セリスは剣を鞘におさめた。
リルムが振り向いてにぱっと笑い、ロックとカイエンもそれぞれの得物を拭いながら近づいてくる。
「森に入った途端にこれか。しかも、どうにも少々レベルの低い魔物ばかりとみえる」
言いながら、カイエンの手元では、重たげな金属が、ちん、と鞘に収まる音を立てた。
「やっぱり、さっきの野原まで戻る? あちらのほうが効率よさそうね」
「だな。こう見通しが悪いと手間もかかっちまう」
バンダナごと額をごしごしこすっていたロックは、セリスに向かって軽くうなずいた。
画材を確かめながらしまおうとしているリルムに、カイエンが柔らかく目を向ける。
「リルム殿、疲れてはおらぬか?」
「平気。ござるのおっちゃんこそ大丈夫?」
「気遣い無用でござるよ」
「さっきの戦闘だけどさ、『コピー』が邪魔だったんじゃない? ちょっと動きづらかったかなって。ごめんね」
「否、素晴らしい撹乱であったよ。それに、そなたの魔法は覚えたばかりというに、表出のさせ方が実に的確に思うでござる。今少し動きを確認できれば、『牙』との連携ができそうに思うが――」
「ありがと。そっかあ、そうだね、あれはもっと上手くできるよね」
技同士のつなぎについて熱心に話しながら歩き始めた二人を追って、ロックとセリスも歩きだした。
なんとなく並ぶような位置関係になる。
(……大丈夫、大丈夫なはずだ。今は「仲間」だから。普通に話せているはずだ――)
会話を探しあう沈黙。いたたまれないようなほっとするような、おさまりの悪い感覚。寄り添うことはできず、距離も開けきれない。声をかけようとして言葉を呑みこみ、視線を向けようと思いながらためらう。
セリスはしばらく爪先だけを見て歩いていたが、ふと耳が小さなつぶやきをとらえた。
(つっ……!)
ぐっとバンダナを引き下げながら、ロックは一瞬、眉をひそめた。すぐに何もなかったかのように前を向き、歩みを速める。小石にでも躓いたかと思われる動作だった。
でも、セリスにはわかった。
ロックは、怪我をしている。それも、案外深く。
場所は……、左の肩先か二の腕か。さっきの戦闘で魔物にかすめられ、ほつれている肩のあたりだ。
気づいたのは、ずっと見ていたから。まくられた袖口から伸びる腕の線も、広い肩も。茶色っぽい砂色の、指通りの良さそうな髪も。自分でもあきれてしまうほどに。
「あの、ロック……」
「何?」
振り返って軽くみはられる茶色の目。体の奥ぜんぶが、ずきん、と鳴る。
それをのみこんで、何事もないかのように、ゆっくりと問う。
「怪我、してるでしょう?」
「……え」
「ケアルを……」
「……なんで、わかった?」
「だって、……」
少し眉を下げて、かなわないなお前には、と小さく言ったロックに、セリスはうつむいて、つぶやいた。
「……だって、わかるよ、」
ずっと、見ていたから。
まくられた袖口から伸びる腕の線も、広い肩も。茶色っぽい砂色の、指通りの良さそうな髪も。
自分でもあきれてしまうほどに。
――そんなことは言えるはずがないけど。
「……あー……、いいっていいって、すり傷だしさ。魔力温存しろよ、セリス」
「だめ、見せて」
「……痛ぅっ……!」
思わずつかんだ腕の熱さと、不意に漏れた彼のうめき声に弾かれて、セリスは手を引っ込めた。
「……ご、ごめんなさい」
「いや、……悪い」
一瞬、ロックは「しまった」という表情をした。それをすぐに消して、今度は目にやるせなさを閃かせ、セリスを見つめる。右手を持ち上げようとして、所在なげにバンダナに手をやり、こめかみのあたりをかりかりと掻いた。
「うん、……じゃあ、頼む」
「……うん、わかった」
立ち止まる。改めて、セリスはロックの腕を取った。
傷口はずいぶんとぐしゃぐしゃで、セリスは思わず息を呑む。いつの間にポーションを使ったのか、血がべたりと貼りついて固まってはいるが、刳られた肉の血がにじみ出していた。どうやらバグに刺されたのではなく、針の尻尾でえぐられたらしかった。
「やっぱり、ひどい傷じゃない……!」
急いで小さくケアルを唱えると、セリスの手にはかすかに白い光があふれだす。
ふわりと空気が舞いあがって、白金の髪をなびかせた。
回復は瞬時に終わる。少しの間、二人は黙ったまま傷跡を見ていた。もう血の痕跡はなく、皮膚が一部白っぽくなっているだけだった。
「……ありがとな。やっぱり、回復してもらったほうが楽だな……さすが、セリスの魔法は凄い」
ぐりぐり腕を動かしながら、ロックは言った。
「……ありがとう」
言いながら、セリスはロックの腕から視線をはずし、手を離した。
それ以上、その肌にふれていたら、きっと、さらに、接触が欲しくなる。
もしもそれが叶えられたなら――おそらく際限なく、体温を求めてしまうだろう。きっと悲しくて愛おしくて、苦しくて仕方がないだろう。
無意識に唇を噛んでいると、咳払いが聞こえた。
ぱっと顔を上げると、困ったようにあちら向きで木にもたれているカイエンが目に入った。
「あのさぁ、早くふたりの世界から帰ってきてよねー。行くよー?」
こちらをのぞきこんでにっと笑い、リルムは踵を返した。
「……っ! ごめんなさい!」
セリスは弾かれたように荷物を背負いなおした。ロックは悪びれない様子で、「はいはーい、ごめん」などと言いながら向き直る。
(……また、だ……、私ばっかり、慌てている)
ロックの方を、もう見ることができず、いたたまれなくて早足で歩きだす。先を行くリルムは、すでに再度カイエンと並んで歩いている。魔力を表出させて見せているのだろう、人差し指の先に強い光を宿らせて、笑顔で何か話していた。
ちょうど森が切れ、野原に出ようとするあたりにさしかかっており、リルムの巻き毛は明るい光を受けて、濃い蜂蜜色に輝いた。
――早く追いつこう。
そう思って、ふ、と息をついたセリスの肩は、またびくりと跳ねた。
彼女に追いついてきたロックが、ひょいと髪をひと房、すくい上げたせいだった。
「……な、何?」
「あ、……悪い」
ばつが悪そうに目を瞬かせ、ロックはぱっと金糸から手を離した。その手の動きに、自分はどれほどおびえたような顔をしてしまったのだろう、と思い至って、セリスは眉を下げた。
「……私の、髪?」
「ああ、……お前さ、もしかして前よりも髪の色、淡くなってないか? ……って、思って。ほら、しばらく別行動だったから」
「そう……かな」
髪の、色。
言われて思い浮かんだのは、ペンキで塗りつぶしたような、薄い黄色の、髪の色。薄暗い鉄の柱の陰でゆらめく、緑色の羽や赤い房飾りや色石が飾られた、髪の色だ。
セリスはふるふると首を振った。
「そんなこと、ない、と、思うけど」
「そうだって。……うん、間違いない。やっぱり、き、」
「き……何?」
「何でもない。……目立つなあって、いうか」
急に無言になり、ロックは歩幅を広げた。耳を赤くしてぐいぐい歩いて行った背中をぼんやりと見やっているうちに、セリスの頭の中では色々なものが勝手にぐるぐるしはじめた。
(き……、何?)
彼はなんて言いかけたんだろうか。
「綺麗」?
……だったら、どんなにかうれしいだろう。そしてそれはこの上なく苦しい言葉だろう。
気味が悪い、は……話の流れ的に違う。ロックはきっとそんなことは言わない。
気づいた――だったら?
(……気づかれ、た?)
パーティ内でも魔導の力を多く使うメンバーの中で、確かにセリスだけ、髪の色が淡くなっていることに。
(もしかして、ずっと、……見ていたの? 私を)
身体がかあっと熱くなる。なのに同時に、背中がぞっと冷えた。
ティナは知る限りずっと、翠にも亜麻色にも見える独特の髪の色をしている。
ガウは魔法を放つときに瞳の色が赤っぽくなっているけど、髪の色は変わらない。
シャドウは……どうだったか。見た覚えがない。
ストラゴス……は、最初に会ったときすでに白髪だったので、比べることができない。
リルムの髪の色は今のところ、サマサを発ったときと変わらない、飴色に近い金だ。
セリスだけが――ロックの言うとおり、だんだん髪の色が淡くなっている。
鏡をのぞいて違和感を感じたのは、ブリザドを覚えた頃だっただろうか。リターナーに身を投じて、自然とポイゾナを覚えたころに、確信した。魔導を使う頻度が上がるほど、自分の髪はよく光を通すようになっている、と。
そして数日間、身体の底から戦慄がわき上がり、ひどく震え続けたのだった。
魔導を身体に受けて、魔法の詠唱訓練をするようになったころから、それは始まっていた、ということに思い至ったのだ。
もっとずっと小さかったころ、シド博士の膝の上で絵本を広げながら、いろいろな木の名前を教えてもらったことがある。そのときに言われたのだ、確かに。だから間違いない。セリスは当時、もっと甘い色の髪をしていた。
――アカシアの花は黄色いんだよ。甘いにおいがして、短くて尖った葉っぱが付いている。
――この木からとれる蜂蜜の色は、お前の髪と同じ色だよ、セリス。
そして博士は、丸っこい手でセリスの髪をなでてくれた。
だから、だろうか。
そうか、だから博士は――初めて彼女がケアルの詠唱を成功させたとき、急いで手を引いて研究室に連れて行き、色見本を彼女の頬の横にあてがって、恐ろしいものでも見たような、今にも叫びだしそうな表情をしたのだろうか。
新しい魔法を覚えて、初めて使うことができた興奮が冷めやらないまま、博士がほめてくれるだろうと期待に頬を染めていたセリスは、そのときはまだ気づいていなかった。
より強力な魔法を身につけるたびに、
一段薄い白金の色を髪にはりつけ、もう少し毒々しい色を好むようになり、血を見て笑い、
魔導の追加注入が中止されてずいぶん経つというのに、
その力の強さを求めて飽くことなく、声の甲高さと矢継ぎ早な話し方が顕著になっていき、
さらに髪の色は平坦になり、――また笑い、鳥の羽根をむしって殺す。
そんな「症例」が、すでに一人いるということに。
光が透き通るような淡い金の髪は、つまり恐怖と一体だった。
誰もが振り返り、賛辞を呈するその色は。手のひらの魔導の発光を映して輝く、白金と似た色は。
いつ彼女自身が「壊れ」るかわからないと示す、時限爆弾の秒針にも等しいものだった。
注入される魔力は抑えられているとはいえ――自分で剣の先を握りしめ、流れおちる血を見て笑うようになる可能性は、常にセリスの背後にもシド博士の頭の隅にも、つきまとっていた。
だから、魔石のエネルギーを身に染み込ませることで魔力を得た仲間たちが、特に身体的な変化を現さないことに気づいて、セリスはいたたまれなくなると同時に、ひどく安心もした。
魔導の力に喰われ、精神を病む可能性があるとすれば、パーティの内ではセリス自身だけだろうから。
魔導を直接注入されて力を得たのは彼女だけだから。
ティナの髪色は変わらない。生まれながらに幻獣の力をもっているからだろう。
リルムの髪色は変わらない。魔石から染み込んでいく魔導エネルギーによって、力を得たから。そしてもともと、古代の魔導士の末裔でもあるから。
二人ともやはり魔法への親和性が高いようで、新しく覚えた魔法は最初から、魔導を体に流しこまれたセリスよりも強力なレベルで発動させることができた。逆にいえば、セリスの放つ魔法の強さは、何度か訓練してなんとかティナやリルムのそれに並ぶくらいということだ。……
……ロックの髪の色も、変わっていないように見える。彼の場合は、いくつか魔法を覚えたもののほとんど使わないせいもあるだろうが。
やはり、魔法の力というものに対してひっかかりがあるのだろうか――『彼女』のいる地下室には、薬品の匂いに混じって魔導の気配がかすかにただよっていたのだ。そしてロックは、時々コーリンゲンの方角を見やっては、やりきれない目をしていた。
立ち止まって彼方に目を細める彼の髪は、草原の風によく揺れた。
茶色っぽい砂色のそれが風になぶられるのを見ているのが、セリスは気づけば好きになっていて、彼がいくつかの魔法を身につけても変わらない色でいることに、気づいてほっとした。見るたびに安心した。
だから余計に、そのうしろ姿を見つめることが多くなったように思う。
顔を上げる。
見慣れた背中は、草原の向こうを指さしながら、カイエンと何やら話しこんでいた。
その前を行く少女の小さな背中を、さりげなく気遣っている様子が見てとれる。
同時にきっと、しんがりを務める形になっているセリスの様子にも、神経をいきわたらせているだろう。
そうか、そんなひとだから。
だから、見つめてしまうのだ。ひどくかなしくていとおしくて、くるしいだけなのに。
視線を感じたのか、ロックは振り返った。セリスと目が合うと一瞬だけ困ったような顔で視線を泳がせ、ひらり、手を差し出す。
「――どした? 行くぞ」
セリスはやっとの思いで手をのばし――その指先に触れた。
*
「……っ、雷鳴の、憤り――……!」
リルムの魔法は、モンスターの固い鱗を焦がしただけで、地面に滑り落ちてしまったらしい。
モンスターはそちらに向き直る。鋭い爪がゆっくり振りあげられようとする。
――まずい。リルムの横にはカイエンもいる。先ほどから片膝をついているのだ。
思うより先に、ロックは右手の短剣を投じていた。モンスターの延髄のあたり、鱗の隙間を狙ったそれは、突き立ったかと思うとゆっくり倒れていく。邪魔者に首をめぐらせ来て、そいつは唸り声をあげた。ごう、と風が巻き上がった。
(セリスは……! 無事か!?)
もう片方のナイフを振りぬき、横に転がる。ぶん、と耳元をかすめた爪に、反射的に目をつぶった。次の瞬間、キン、と剣が硬いものをはじき返す音がした。身体を反転させ、起き上がる。
長剣が、モンスターの指をまとめて四本斬りとばしていた。
白金の長い髪がふわりと流れて、愛しい姿が身をさばくのにつられ、水の流れのようにきらきら光った。
(……ああ、綺麗だ)
思わず見惚れながらもロックは逆側に走り込み、モンスターの脚の腱を切り込む。タイミングよく火球が飛んできて、同じところに弾けた。
モンスターは大きく叫び声をあげ、地響きをたてて身悶える。
詠唱を終えたばかりの隙をつかれ、リルムが吹き飛ばされた。カイエンは構えに入っていたところを爪にひっかけられながらも、そのまま刀を打ち下ろす。モンスターの脚は一本、胴体から離れ、カイエンといっしょくたに地面に飛んで転がった。
爪と牙と鱗は、さらに咆哮をあげて暴れ狂う。ロックの脇腹を尖った爪がかすめ、ぷっ、と血が散った。
「くっ……!」
片手を支点にして身体を反転させる。鉤爪のついた尻尾が追ってくる。さらに後転。視界の端に、牙に襲いかかられるセリスが映った。――だめだ、そちらに行かないと。援護しないと。彼女を、……守らな、ければ。だが、失血のせいか体が重い。夢中で腰をさぐり、飛剣を抜いて投げた。
「ロック……!」
セリスがモンスターの目を切りはらいながら、叫ぶのが聞こえた。
飛剣を顎に食い込ませたままのそいつに、セリスはさらに斬りつける。足に傷を受けているのか、その動きはいつもより鈍い。ロックは駆けた。彼女のもとへ。
「セリスっ……!」
モンスターの目前に跳びこむ。鱗の隙間にナイフを突き立てる。大きく振られた首に、それは弾かれて飛んだ。
「くそっ……!」
これで丸腰だ。こうなったら。
あえて醜悪な白い腹の下に、ロックはすべり込んだ。そいつの一番柔らかい部分に掌を向ける。セリスの剣がさらに一閃、蠢きを止める。そのすきにロックはファイラを詠唱し、直接モンスターの腹に撃ちこんだ。……
ロックの瞼がひくりと動き、ゆっくりと開かれていく。
「ロック……! 良かった……」
彼にかがみこんで傷の手当てをしていたセリスは、泣きそうな顔で安堵の声を漏らした。
「ああ、俺、……生きてるな、なんとか」
「……無茶、するから……ありがとう、庇ってくれて」
「や、……うん」
仰向けのまま、ロックは首をめぐらせた。
両膝をついているセリスの左足に、傷を固定した包帯の形跡が見える。ナイフと飛剣が土の上に並べられており、向こうにリルムとカイエンが座って休んでいるのもわかった。
「セリス、足大丈夫か?」
「なんとかね。……ロックこそ、切傷はともかく手に火傷が……痛む?」
「いや。あー……慣れないことはするもんじゃないよな、魔法はやっぱりうまくコントロールできないなぁ」
ロックは両手を顔の上に持ち上げる。てのひらは両方とも、自分の発した魔法に焼かれ、ただれた痕になっていた。
「……セリス、」
呼べば、彼女は心配そうにロックをのぞきこむ。そして再度ケアルを唱えようと、彼に右手をのばした。
その細い手首をロックは握り、指に軽く口づけて自らの額にあて、目を閉じる。
「……っ!」
びくりと肩をはねさせながらも、セリスはされるがままでいた。 きつくつながれた指の先から、熱さが伝わってくる。セリスはおずおず左手をのばし、ロックの頬にかかった髪に触れた。
そうっと何度も、彼女はそれを梳いた。
その拍子にバンダナがずれ落ちる。
セリスは思わず目を見開き、口元を押さえた。
現れたロックの髪の色が、一瞬、灰色に光りながら揺れているように見えた。
「セリス? ――どした?」
言いながらロックはゆっくり目を開けた。
右手を握ったままの彼の手に、セリスは左の掌を重ねる。熱くておおきな手を強く握りしめると、きゅっと握り返してくれた。たまらなくおそろしく、かなしくていとおしくて、くるしい。きつく目を閉じる。重なった手に伝わる温度が、世界のすべてになる。
ロックは持ち上げた掌にもういちど視線を向け、目をしばたたかせた。
ほとんど癒された火ぶくれの跡になっている自分の手のひらを、彼はしばしぼんやりと眺め――
皮膚の割れ目から流れおちていく一筋の血を見て、へらり、と笑った。