別館「滄ノ蒼」

夕赫(10)

 セッツァーが眺める世界からは、音が消えた。

 耳元を吹きぬけていく風を、冷たいとも痛いとも思わなかった。
 夕焼けを見ても夜明けの空を見ても何を思うこともなくなった。
 艇をとばす時だけ、轟音が感覚の全てを埋めつくしたが、喧しいとも心地良いとも思わなかった。
 幼いときから響き続けていた耳障りな音は、鳴りだすことはなくなった。
 恐れ続けた母親の幻は、無感情に思い起こすただの記憶となった。
 ただ事務的に目的地まで操縦し、時折何かに衝かれたようにスピードを限界まであげてブラックジャックをブッ飛ばし、追い立てられるように急旋回した。

「あたしにもしものことがあったらファルコンはよろしく」
 ダリルの地上での最後の言葉を、何度も思い出しては払いのけた。ダリルの墓の方角を見やりかけ、地の底に納めたままのファルコンを思い浮かべては顔をそむけた。

「バカ言え! ファルコンをいただくのはスピードでお前に勝った時だ」
 置いていかれそうに思ったから、笑いとばして見せたのに。
 結局本当に、セッツァーは置いていかれてしまった。夕陽の下に立ち尽くしたままで。
 そして大切な真冬の日を、ブラックジャックの誕生日を、一度だって祝ってもらえなくなった。毎年祝ってやる、と言われたのに。
 後に残ったのはただ―彼女の肌の温かさをただ貪り、それを失った、事実。

 吸う煙草の銘柄は、どんどん癖の強いものに変わった。
 ブラックジャックの賭博設備は、ごちゃごちゃと増え続けた。
 いつかダリルに切られた髪は、いつの間にかまただらしなく伸びて、背中の半ばを越えるほどになっていた。

 ダリルに顔をあわせられないまま、相も変わらず、ファルコンのスピードには追いつけないでいる。
 それは理由のない強迫観念でしかないけれど、世界最速の艇はあくまでもブラックジャックではなく、―


 …
「バカ言え!ファルコンをいただくのはスピードでお前に勝った時だ。それまでは俺の前から逃がさねぇ」
「ふん。好きにしな」
 さっさと踵を返して歩いていくダリルに、セッツァーは追いすがる。
「…待てよ、ダリル―」
 ダリルは振り向かない。セッツァーは彼女の腕をつかめない。
「ファルコンはよろしく、って、…どういうことだよ」
「そのまんまよ。もしもあたしが帰らなかったら、あんたがこの子を飛ばしてやって頂戴」
「なんだよその仮定―」
「もしも、つってんでしょ。そんなことでもなきゃ、あんたなんかにファルコンを任せるかっての」
「それにしたって、ファルコンがお前以外の奴を舵手と認めるなんて思えねぇ」
「それでも―」
ダリルは振り返る。深い深い色の目。空の向こうを映す目。華やかな香りがふわりと舞う。
「あたしはあんたに頼みたいのよ、他でもない、あんたに。ファルコンのことをあたしの次に知っている、あんたに」


 …いつか地上の国境線なんぞはずいぶんと変わり、南の空を飛べば妙な形の艇と行き会うようになった。巨大な帝国が造ったものだと知ってからは、時によって気紛れに、賭博師は喧嘩を売りつける。
 煽ってみたり追いかけっこを仕掛けてみたり、物を投げつけてみたりした。
―どんな奴が飛んでいようがどうだっていいんだよ俺は、
 空軍機をまきながらそう呟くのは、嘘。そううそぶくのは、矛盾。
 本当は、わかっていた。
 ファルコン以外の機影が目に入る空など許せなかったのだ。
 雲と、月と、星と、鳥と、朝日と、夕陽と。それだけが、空に存在して良いもののすべて。
 唸りを上げる風。退屈。怠惰。理由のない焦燥感。フザけたヤクザ者を演じ続ける、空虚。
 それだけが、不敗の、派手好きの、唯一の飛空挺の持ち主の、賭博師のすべて。


 …
「あたしはあんたに頼みたいのよ。他でもない、あんたに」
 それとも何か?柄にもなくビビってんの?そう言ってダリルは視線を戻し、喉の奥でくすくす笑った。
「もしもの話に、おびえちゃったのかしら?」
「そうじゃねえ…そうじゃねぇけどさ」
 理由もなく、置いていかれそうな気がしただけで。予感がした、ような気がしただけで。
「俺の予感は―当たるんだよ」
 そのときは、誤魔化すようにそうつぶやいた。
 …けれどそんな「予感」など、当たらなくて良かったのに。


 そして運命は、反転する。

 オペラ座で退屈しのぎにしかけたお遊びが、目的の女とは別の女をすくい上げ、セッツァーはそのままブラックジャックごと人生最大の博打を打つことになった。
 博打を打つことになったというよりは、セッツァーの方がなにか大きな運試しに巻き込まれた―というべきかもしれないし、あるいは単純に、騒がしくて能天気な同行者たちが放っておけなくなった―と表現すべきかもしれない。
 とにかく、奴らと行動を共にするようになってからも、賭博師は一歩引いて、自分も含めた「世界を救う旅」とかいう名前の、乱気流の中の高速飛行を面白がって見ていた程度のものだった。
 否、正確に言えば演じていたのだ。「酔狂に足をつっ込んだ自分を冷笑する、刹那主義者」を。


 そして再び、流れは大きく向きを変える。

 わけのわからないままに狂騒が世界を崩壊させ、ついでにブラックジャックも壊れてしまったのだ。
 そうなってみて初めてセッツァーは、よく判らない焦燥感に煽られながら頬に感じた風に、ただ現在地の目標点にしていたはずの山脈や海や草原に、面倒な雨 や雪を避けるために突っ切っていった雲の上の空に、狂おしいほどに焦がれ、ダリルが空を見上げるときに見せたこの上なく愉しそうな目を、得心した。
 ただ一度だけ見せてもらった、彼女にとっての最高の星空は、綺麗だとしか思わなかったけれど、自分で艇を駆って見た空は、頬に感じた風は、これほどまでに愛おしい。
 ああ確かに飛空艇は、空をとばしてやらなきゃいけないモノだ。
 そう、心底納得した。あの艇も飛びたいだろう、と思った。

 けれどファルコンは起こせない。
 飛ばずにはいられないそれを地の底に閉じ込めたのは彼自身だったから。
 だれも眠ってはいない墓所からひとりでに飛び立っていくだろうと、どこかで思い続けていたから。
 セッツァーの、空への思いは。舵を握る覚悟は。いまだダリルには敵わないから。
 自分の半身だったブラックジャックさえ、飛ばし続けることができなかったから。

 酒をあおっては立ち上がりかけるのを幾度も止め、机に突っ伏して色の抜けた世界を眺めた。
 手を動かすと、空になったグラスにぶつかった。机の上でガラスがグログロと転がる音はくぐもっていて、外で風の吹く音はしているのだろうか、などと、思った。


 …思い出すのはいつだって風の音で。柔らかに流れる、鮮やかな黄金の髪で。
「あたしは絶対に、あんたより先を飛び続けてみせる。いつまでも。いつまでも」
「身体なんかなくなったって、夢を追うのよ。空の向こうまで」
「ファルコンは―飛ばずにはいられない翼、だから」
 飛んでいたのはいつも夕刻で。藍色に変わっていく空を見上げ、星座の向こうの闇を追っていた。


 ギイ、とドアの軋む音が聞こえた。
 胡乱な視線だけを向けた先、入口から凄い勢いで女がこちらに向かってくる。
 その髪の色は金色で、けれど夕陽をうけて輝く鮮やかな色ではなく、淡く光ってさらさらと流れ―

 …そしてセリスははりつめた声で、セッツァー、と呼んだ。



          *



 セッツァー―セツ―…ちがう、何て呼ぼうかしら。
 あらためて呼ぼうとすると、なんだろうね、あんたの銀色の髪しか思い浮かばないわよ。
 ほっといたらまともな食事しないくせに、あんたはちゃんとご飯食べてるのかしらね。
 たぶんこれが人生最後の景色だなって時に、なんであんたのご飯の心配なんかしてるのかしらね。

 …でも、いいわ。私は今、最高に気分がいいから。
 私はきっと今、笑っているから。

 私ひとりが知っている艇のスピードで、誰も見たことのない空を見られたんだから。
 見たくて見たくてたまらなかった空の向こうに、行くことができたんだから。
 私はこれからもずっと、あんたを支えてやれる、そう思った。
 ずっと抱きしめ続けてやれる、そう思った。

 ああでも、もうきっと無理なんだろうね
 あんたの分身の誕生日を祝ってやることもできないんだろうね
 ごめんね。ごめんね。
 空であんたに抜かされることも、もう絶対にないんだろうね
 …ざまみろ。ざまみろ。

 私は今、きっと笑っている。

 ああ、すごい勢いで岩肌が迫ってくる。
 粗い表面が血を光らせたみたいな色に染まって、なんて綺麗なんだろう。

 夕日って本当に、真っ赤なのね。
 何よりも高いところから見下ろしながら、飛び続けていたかったよ。
 あんたが茜色の雲を突き抜けて飛び続けるのを、見ていたかったよ。

 だからお願い、ファルコンを―



(2008.7.2初稿)