そして俺は目を瞑り、息を止める。
消えたことはない、消えることもないであろう記憶を、より鮮やかに思い出すために。
そして俺は耳をふさぎ、声を押し殺す。
絶えず聞いていた、絶えて久しかった、アイツの笑い声を思い起こすために。
*
「先に行っててくれ」
エンジンルームから上がったところで小部屋の扉を見つけ、俺は仲間に声をかけた。
マッシュはうなずき、セリスはちょっと首をかしげる。
「じゃあ、俺たちは甲板と操縦桿の具合を見ておこうか。いざ操縦士殿が操縦桿を握ろうとしたらコウモリが巣を作っていた、なんてことがあってはかなわないからね」
エドガーはそう言ってセリスを促し、ちょっと手を上げると、甲板に続く通路に入って行った。
親指を軽く下に向けつつそれを見送り、小部屋の扉に手をかける。少しためらって、力を込めた。
そこはアイツが艇長室として使っていた部屋だと記憶していた。ファルコンを整備し、この地下に納めたとき、どうしても手をつけることができなかった――扉を開けることすらできなかった、小部屋だった。アイツただ一人だけのための、場所。
内部は予想通りの惨状だった。
二つだけ置いてあったささやかな家具のうち、長椅子は記憶にある位置から大きくずれ、強く擦ったような跡で塗装が剥げている。壁に掛かっていた小さな丸 鏡は床に落ち、そこらじゅうに破片を散らばせていた。もう一つの家具――小ぶりの三段チェスト――はひっくり返り、抽斗が飛び出していた。
たしかこれは、アイツが鏡台がわりに使っていたもののはずだ。中に仕舞われていた白粉だか髪粉だかがぶち撒かれて一面粉だらけになっているし、練紅や爪 紅の瓶も割れ、中身があちこち飛び散っている。その上からうっすら埃が積もって、主を失った化粧道具の存在感を妙に際立たせている。
色々な破片を避けながら歩き、片手でチェストを起こした。
その時、何か引っかかっていたのか、閉まったままの三段目の抽斗の中で、かたり、と音がした。
「なんだ……?」
引手に力を込めるまでもなく、すんなり開いた。
中には小瓶が一つ、転がっていた。やや装飾的なデザインの硝子には、ひび一つ入っていない。琥珀色の液体が半分ほど詰まっている。
ラベルには、銘柄であろう、ある単語が読み取れた。
「”SFIDA”(挑戦)」
蓋を開けた。
匂い立つ、どこか苦味を含んだ華やかな香り。――ダリルの、香りだった。
無事だったのだ。これだけが。再建不能かと思われたほど、一度は壊れ切ってしまったこの艇の中で。
……俺はめちゃくちゃになった床に膝をつき、思わず小瓶を握りしめていた。
「あたしにもしものことがあったら、ファルコンはよろしく」
そうだ。あの時アイツは、笑っていた。
俺は多分泣きそうな顔をして、頭ん中ぐちゃぐちゃで。でも制止なんかできなくて。
けど、アイツはといえば。ずっと真っ直ぐに、迷いなく、焦がれるようにすら空の彼方を見据え続けていたのだ。
そうか。アイツは一体だったのだ、この艇と。飛び続けずにいられない、この白い翼と。
空そのもの、だったのだ。
いつだって――そうだ、いつだってアイツは、この香りをまとっていた。
俺が後ろでうろうろしようがわめこうが裾を引いてまとわりつこうが、アイツが最後までぶれることなく追っていたのは、人の身で一生かかって見られるかどうかの彼方の向こう、そこに挑み続けることだったのだ。
(「挑戦」か……)
そうする覚悟を持っていた。俺には、なかったものだ。そして――そうすることで、アイツは持てるすべてを護っていた。
アイツに色々なものを抱えさせてしまったと、そう俺は思って死んだように立ち止まっていたが、アイツはそのこころを持っていたから、だからそれでも、あれほどまでに速く飛べたのだろう。夢を追って。
(――夢、か)
小瓶の形は凝ったものではなく、ラベルは印刷ではない。おそらく、アイツはこの香を、特注で作らせたのだろう。自分だけのために。いくら色んな店先を覗きこんでもついぞ見つけることがなかったわけだった。
これをブレンドした調香師を探しだすことはできるだろうか。否、生きているかどうか。今は世界中どこの街も、白壁はあちこち壊れ落ち、その陰で「裁きの光」を恐れ、縮こまっている。命ある奴ならば、どいつもこいつも。
――俺はコートを脱いだ。鳩尾のあたりに「挑戦」の香をひと吹きし、ばさりとコートを羽織りなおした。手のひらに収まる大きさの小瓶だけをその部屋から持ち出し、扉を閉めた。
仲間たちは操縦桿のだいぶ手前に立っていた。
「悪ぃな……待たせた」
一斉にこちらを振り返った三対の青い目にちょっと手を挙げてみせると、それぞれ、ほんの少し笑う。
「行くか」
奴らの間を通り過ぎた時、セリスが小声で、「セッツァー、香り……」と言った。
俺は小さくにやっと笑ってみせ、操縦桿を握った。
ひさびさの感触。体は覚えていた。
操縦桿を押すと、機体全体から押し返されてくる手応えがある。
あらゆる動力に命が吹きこまれていく。ごうごうと鳴り渡るエンジンの音がどんどん高くなる。
そしてファルコンは、ゆっくりと動き始め、スピードを上げていった。
海面を突き破った。
見渡す限りに空が広がっている。
飛べば当たり前のことだ。だが、ブラックジャックを失ってからこっち、俺の中でからからと蠢いていた空虚の底に、なにかがすとんとおさまったような気がした。
空は埃っぽく赤錆色に染まり、頼りなげな日輪の影がぼんやりと地平近くにひっかかっている。初めて見た壊れた色の風景は、これから行くべき世界を、ひどく不安定な、全くの未知の場所に見せていた。
――この白い飛空艇にはきっと、青空と星空のほうがよく似あう。
そう思いながら俺は、繊細なほどの造作をした舵輪をしっかと握りしめ、喉の奥でくくッと笑った。
「また夢を見させてもらうぜ、……ファルコンよ」
そして俺は目を瞑り、息を止める。
消えたことはない、消えることもないであろう記憶を、より鮮やかに思い出すために。
俺は耳をふさぎ、声を押し殺す。そして、顔を上向ける。
この世界の弱弱しい夕焼けの、その赫い光と風を、全身で感じ取るために。
(2011.7.末日)