セッツァーのためにファルコンの昇降口のハッチを開けてやるたび、見下ろしたその地面にはちょこんと猫が座っているようだ―と、私はいつも思う。
たった今までその紫色の目をじいっと扉に向けていたくせに、いざ私が扉を開けてやれば、そっから手でも出しやがったら飛び退って逃げてやるからな、とでも言いたそうに目を細めているから。
そのくせいつも、私がふんと笑って中に引っ込めば大いそぎでタラップを駆け上り、艇の中にすべりこんでくる。
そして私が行くところ行くところ、ファルコンのそこかしこについて歩き、私が舵の利きを調整すれば回り具合を確かめ、私が動力部品の収まりがわるいと言 えば格納庫に頭から体を突っ込んで機械油まみれになり、私が新しい配管の螺子が硬すぎると舌打ちすればそこに飛びついて「緩めりゃいいのか?」と管の中を のぞきこむ。
そいつはいつからここに―ファルコンに居ついたのだっただろうか。
しばらく時が流れるうちに、殺風景な部屋の中に、銀の髪をした人の形が存在することは当たり前になっていた。
時には「それ」は長椅子の足元に転がっていたり、どこからか持ち込んできた本や図面を床一杯に広げて考え込んでいたり、今などは傾きかけた日の光がさしこむ窓から顔を出して、高く澄んだ空から吹きぬける風に、肩を覆うくらいの長さの銀髪を舞い上げられている。
よく考えれば、そいつをこの艇に初めて入れてから、否、それどころかセッツァーというそいつの名を知ってからそう長い時は経っていないのだ。
(半年―いや、3ヶ月より長いかしら)
知り合ってから共に過ごした時間の長さなど、何の意味も持つわけではない。それが価値を持って輝くのは、たとえば長い時を一緒に歩んだ夫婦のこと。私達 にとってのお互いは、夜通し酒を酌みかわし、馬鹿を言って潰しあえる貴重な友人、兄弟分だ。そういう相手に向かって、子供の頃の家庭の事情だとか、自分の 根っこのどろどろした部分など口に出す必要はない。ただ、わかり合っていると感じる。それだけのことだ。
ただ、それだけの。
(…それにしても)
全く私達は、自分のことを教えあうよりも、この艇の構造について議論したり遊びで賭けを張ったりばかりしている。
既にセッツァーは私に、少しの借りと数回の呑み負けと十回前後のダイスの負けを作っているし、ドライバー片手にファルコンの部品をこっそりのぞきこむそいつの後ろ姿に気づいて蹴飛ばしたことも一度や二度ではなくて。
いつの間にかそいつは、私以外にファルコンの機関室を見ることができるただ一人の人間にはなっているのだけど、たまったものではない。
(でも、ま、仕方ないわね)
こいつは小さな男の子なのだ。くすり、笑みが口の端にのぼる。
「セッツァー」
ん?という顔をして振り返ったそいつに向かってくいくいと手招きし、呼びよせる。
「お酒、出してきて。飲みましょ」
「こんな昼間っからかあ?」
呆れた顔をして片頬をしかめたそいつの前髪を、姉が弟にするようにぐるぐるなでてかき分けてやると、なぜかそいつは私の口元を一瞬ちらりと睨んで目をそらした。
「―俺はこれから仕事なんだっつの」
「うるさいわねえ、」
さっさと動け、と手を振ってやると、ぶちぶち文句をたれながらもセッツァーは素直に瓶を取りに立ち上がる。とりとめのない話をしながらグラスにどぼどぼ注ぎあい、そしてしばらくの後、そいつを送り出した。
そこまでは、いつもと同じだった。
けれどその日は、舞い戻ってきたのだ、そいつが。
「ダリル!」
夜半過ぎに駆け込んできたとき、セッツァーはまだ街の人波の埃っぽい風を纏っていた。
そしていつもとは違い(というか、初めて見たのだけど)盛大に口の端をつりあげて、
―笑った。
「聞いてくれ」
珍しいものを見る、とぼんやり思いながら、眠りかけていたところを起こされた私は、不機嫌そうにあくびをしてみせた。
「あんたさ、仕事しなさいよ」
「構わねぇよ、」
セッツァーはするっとファルコンに入り込んでくると、これまた珍しくさっさと勝手に瓶をかかえて座り込んでしまった。
実にうれしそうに酒をなめながらそいつは、(これもまた、初めて)興奮気味に何度も繰り返した。
―手に入れた。手に入れたんだ。
―追いついてやるからな。
―いつか必ず、追いこしてやるぜ、ダリル。
なんのことかと思って話を聞くうちに、私にもだんだん興奮が感染し、頬に血が上った。
「やるじゃない、セッツァー!」
私にもまた珍しく、そう喜びの声を上げながら、私はそいつの頭を、くしゃくしゃになでていた。
空で張ることのできる競争相手が、私にできたのだ。
*
客が、いてさ。
まぁよく俺を指名してくれる常連だったんだが、これがまたいいカモになりそうなお人好しでな。
そいつが賭場に借りを返せなくなって、自分の小さな工場を手放すことになったんだ。
当然、土地建物は即行で競売にかけられたわけだが、困ったのはその中身で―その工場っての、作りかけの妙な機械やら歯車の在庫やら中途半端に残った溶接材やら、えらいことためこんでたらしいな。
ま、持ち主だった奴の性格からして、投資するだけして回収のアテなんかなかったんだろう。
当然だけど、そのガラクタは大した金に換えることもできなければ引き取り手もなくてさ。
処分するにも結構な額になっちまうことがすぐにわかったわけで、賭場のオーナーが―なんでか知ったこっちゃないが―大体、そいつは俺の馴染みだったってだけじゃねェか―苦虫噛み潰したような顔をして、「どうする?」だとか訊いてきやがって。
危なくロコツに、なんでそんなもん俺に聞きやがる、って言うとこだったぜ。
その時、その客が最後に来たとき言っていたことを思い出さなけりゃな。
「私はね―」
「フィガロなんかで注文された機械の組み立ての下請けをしているんだが―」
「今は、空飛ぶ船だとかいう変な機械の試作品がうちにまわってきていてね―」
幸運の女神が流し目をくれながら俺とすれ違おうとしている。
そう直感した。カードを切るべき瞬間だ、と、そう思ったんだ。
考える間もなく答えていたぜ。引き取りますよ、それ、って。
…何だよ、バカかお前、ってか?博打にも程があるって? だって「空飛ぶ船」だぞ。手に入れれば、こんなデカいもんを一から作らずにすむだろうが。
年に何度もねェ大当たり、だと思ったんだ。俺の「予感」は、当たるんだよ。
…オーナーは、はあ?と目を白黒させてたが、深々とため息をつくと、言ってくれた。
何でそんなもん欲しがるのか訳が判らんが、二束三文でお前にやるから、好きにしろ、ってな。
…ダリル。
…ダリルよ。
いつかお前に追いついて、追い越してやるんだからな、覚悟しとけ。
最高の飛空艇を、俺は作って、空を飛ばしてやる。
このファルコンに、絶対に負けねぇ船を。
*
どれほどの時間がたっていたのだろう。いつの間にかそこらには何本か空の酒瓶が転がっていて、あたたかなランプの明かりがその影をくっきりと描き出している。
セッツァーはぐんにゃりした姿勢のまま、よくわからない唸り声をあげた。
―待ってやがれ。
―待ってやがれよ、ダリル。いつか…
そして私にぐしゃりともたれこみ、肩に顔を埋めた。
冷たい唇が胸元の肌に当たる。ニ、三度、そっと、そうっと触れてきて、
しばらく、じっと当てたまま。ゆるやかに私たちの体温はなじみあっていく。
…猫が毛繕いでもしているようだ、と思った。
生まれて初めて日なたに出て目を細め、おずおずと体を伸ばして暖かな光を求めているような。
暗い隅っこで丸まっていた子猫が、初めて人の手に近づいて、ちろり、舐めてみるような。
そして人の手が何となく、少しだけ気に入った、と体をすりよせてくるような。
そんな触れ方だった。
―ああこいつは突っ張っているけど、自分以外の生き物に触れたのが随分久しぶりなのだな、
―ああこいつは突っ張っていても、ほかの生き物の体温を味わいたいのだな。
ふと、そう思ってしまった。思ってしまったから。
私はもたれかかってくる頭の重みを肩で受け止め、その心地良い温かさを感じ取り、
支えてやろうと―腕をまわした。
そいつの髪をなでて頭を抱き寄せると、私の胸の底の辺りではちいさなかけらがことりと音をたてて、いつもなにかすかすかと風が通る欠けた部分に、くるり、嵌まる。
腕の中の大きすぎる子猫はしばらく固まっていたかと思うと、ごとんとずり落ちていき、派手に私のひざにつっぷして、動かなくなってしまった。
「ちょっとぉ、重いんだけど」
そいつはてのひらで光を顔からさえぎるように横をむいていて、時折頬が苦しそうにひくひく引き攣る。
「ほら起きて。どきなさいよ」
ぺちぺちと頬を叩いても反応はない。寝息も立てずに眠り込んでいるらしい。
その姿はひどく無防備に見えて、私はそっと、そうっとその髪をなでた。
やわっこくて細い、銀糸が幾筋も指にまとわりつく。ひざの上の頭は柔らかくて熱くて、重い。
思わずくく、と小さく苦笑した。
―まあ、こういうのも悪くない。
ランプの炎が小さく鳴って、橙色の光がかすかに揺れた。