(私がそいつを最初に見たのは、賭場だった―ように思う)
その日、陽が沈みきってからもしばらく私はファルコンを駆り、いいかげん体の底から冷えて指先がしびれ始めたころ、未練たっぷりにジドール近くの台地に降りてきたのだった。
春というにはまだ季節は浅すぎて、夜気が凛と凍りつき、冬の星座が地平近くに昇っていた。
指先をこすりあわせ、息を吐きかけて暖めながら回廊を歩く。板張りの廊下に自分の足音が響き、寒々と人気のない艇内の空気が乱れる。
艇長室に下りた。
長椅子と小さなチェストと、幾つか必要なものが置いてあるだけの部屋だ。
我ながら味気ない部屋だと思うし、花でも生けるなりもっと居心地を良くしても良いだろうとは思うが、結局のところ私はたいして飾ることに興味がないのだ。物を増やせばそれだけファルコンのスピードは落ちてしまうのだし。
ランプに火を入れる。指先がまだかじかんで、マッチがうまく擦れない。
ようやく頼りなげな光がほうと揺らめいて自分の影が壁に映ると、シェードに手をかざしてその暖かさを味わった。
淡い逆光に照らされて、自分の紅い爪が目に入る。
機械を扱うせいでいつもなら塗ってもすぐ剥げてしまうのだけど、今日はまだ保っているのに気づいて、思わず笑みがこぼれた。
そう、夜はまだ長い。
着がえでもして、たまには人ごみの中を歩いてこようか。
―私はふとその時、そう思ったのだ。
その町では、華やかな明かりがどの建物の窓にも灯っていた。
ドレスを着てヒールの音高く夜の街路を歩き、すれ違う人の注目を集める気分は悪くない。
犬を連れたシルクハットの男。使い走りの少年。街娼。着飾った奥方。酒樽を曳く馬車。
さざめき笑う人々の声が店々から溢れだして、煉瓦と石畳の町並みの間を滑っていく。
一歩、いかにもやくざな場所でございますと主張しているかのような空気が流れ出してくる、賭場らしき建物をのぞきこんだ瞬間だった。
グラスが派手に割れる音、続けて怒声が響いた。
わさわさと緊張する空気、わめき声が膨張する。生暖かい空気がたくさんの人の動きで揺れる。
どうも、客どうしが喧嘩でも始めたらしい。
やや薄暗く照明された室内に足をふみ入れると、喧騒がひときわ大きくなる。
他人事を決めこんでいる紳士の脇をすり抜け、きゃあきゃあ声を上げる女客を追い越し、物見高い男たちでできた人垣の隙間にすべり込んでのぞいてみると、 白っぽい髪をした若いディーラーが、ひっくり返った格好で他のディーラーだのバーテンだのに押さえこまれているのが半分見えた。
その男は、客と揉めたかしたのだろう、切り裂かれた頬から血を流しながら視線を動かして
ひどく面倒臭そうにこちらのほうを見て
にっ、と口の片端を歪めた。
なんだか気に食わなかった。
底光りして見えたその目に、なぜか一瞬、足元を何か小さな生き物が走り抜けていったような―そしてそれはどうしてか、ファルコンの舵を握って上昇していくときの風にかすかに似ていたような、そんな感覚が起こったから、だったかもしれない。
そしてそれは今思えば、同属嫌悪に近いものだったのかもしれないのだけれど
この野郎、と―なんだこいつ、と
冷たい諦観と怒気とを宿したその視線に、私はふとその時、そう思ったのだ。
(私がそいつと再び会ったのは、やはりその賭場だった―と思う)
その日もまた、私が暮色に名残を惜しみながら機体を降下させたのは、たまたまその時飛んでいたジドール近くの台地だった。
朧な空に半月がぽっかりと浮かんでいて、やわらかく頬にあたる風がどこか匂やかな、すでにそんな季節になっていた。
そしてその時もふと、私は町に出かける気になったのだ。
甲板から艇内に入り際、ちらりと目に入った街の明かりがゆらゆら疼くようで、上気したままの気分がまたかき立てられたから、だったかもしれない。
髪の乱れに手櫛を入れて指先で巻き、口紅を差しなおし、身繕いを整える。いままでに数え切れないほど繰り返したその作業はやはり、面倒なくせに浮き立つ気持ちにさせてくれるものだ。
ファルコンが人目につかないようちゃんと隠れているのを確かめるのも、どこかもどかしかった。
森を抜け、街に入る。
相変わらずの喧騒、雑踏。忙しげに行きかう人と車輪の波。かつかつと足音をはね返す石畳。いくつもの窓からこぼれる、きらびやかな明かり。無意識のうちに、この前はどこの路地を通ったかしら、と、通りの両脇の建物を見上げながら歩く。
(あった、ここだ―)
人いきれで温まった眩い光が溢れてくるその、少し開いたドアと石造りの建物が、少し前の記憶をうっすらと呼び起こした。
ドアを押すと、ギ、と古びた金属の重い音がした。
そしてまた、薄暗いその中を覗き込んでみると、
頬に傷跡のある、ディーラーらしき若い男が、クソ面白くもなさそうな顔で紫煙を吐き出していた。
―そいつの、誰より白っぽい髪の色が、前に見た騒ぎを思い出させたのだった。
「―…××?」
その時、何と言ってそいつに声をかけたのかは、どうも覚えていない。
「―…××―」
そしてそいつが何と答えたのか、やはりどうにも覚えてはいない。
「…×××」
ただ、いつの間にか私はそいつの向かいに席を占め、そいつとカードの勝負を始めていたのだ。
おそらく私より何歳か年下なのだろうと見えるそいつは、私が金だのスリルだのを得るためのヒステリックな積み方をしないのを見てとったのか、煽るような言葉を言わなくなり、「客」に勝たせたり負けさせたりするための賭けをやめた、ようだった。
つるつると流れていた時が―泡だって溜まる。
「悪くない腕じゃない、ディーラーさん」
いつも「客」を冷やかすばかりなのだろうそいつを、そうからかってやれば。
「…光栄ですね、お客様」
顔の半分だけをしかめて、そいつは初めて正面から私を見た。
光の加減で、黄色っぽい室内の灯が鈍く髪に反射し、私はその色が白ではなく銀色だということに気づいた。
「そんな賭け方していいの?仕事中でしょ、貴方」
髪と同じように淡く光る視線がずらされる。言葉がそいつの口をついて、ぼそりと落ちる。
「他のお客さん方とは毛色が違うんでね」
「私が?」
くくく、と喉の奥から笑いがこみあげた。手元には、新たな2枚のカードが配られてくる。
やり難ィんだよ、目の色変えて賭けてないからな、とそいつは言った。灯りがまたその銀色に反射して、しゃら、と音が聞こえたような気がした。
「大体あんた、そもそも博打なんざ好きなわけでもないんだろ」
「だったら、何よ?」
片眉をあげて見返してやれば、そいつはまた顔を半分しかめて、カードを一枚、ひらく。
「…やり難ぃんだ、って話だよ。客に勝たせりゃいいんだか遊ばれてんだか―」
「生意気ねぇ、その年でどんな種類の人間も知ってるようなこと言っちゃってさ」
「―でもねェだろうよ」
そいつは指先ではさんだままだった煙草を灰皿に押しつけて、
「ここは…賭場だ。ヤバい奴もお偉いセンセイも来やがるんだよ」
そして、こちらを少し睨むような目をした。
「俺はここにいるんだ。ずっと前から」
私はその時はじめて、そいつの眼の色が薄い紫色だということに気づいた。
夕闇の色だ、と思った。
その色は、悪くない。
私はふと、そう思った。
…手元のカードも、悪くない。
「―さて、スタンドするわ。乗る?乗らない?」
「乗った」
にっと笑ってそいつが開けた手札は―
「19だ。」
私は余裕の笑みを浮かべて、カードを広げてやる―
「21(ブラックジャック)ね」
「…っきしょう、勝ったと思ったのに…」
頭をかかえて机に咬みつきそうな顔になったそいつに、私はまた喉の奥から笑いを投げつける。
「―ガキ」
くすくす。
私はさっさと上着を羽織って立ち上がり、出口に向かって踵を返した。
「おい、ちょっと待ってくれよ、あんた、名前…」
背中に、そいつが立ち上がって私を呼び止めようとする気配が聞こえた。
普段の私なら、にっこり笑いかけてやるだけで、遠慮なくその場を後にしただろう。
でも。
思い出してしまった。
そいつの両目が宿す夕闇の色は悪くなかった。
そして頭のどこかではまだ、この野郎―と思っていた。
私はふとそのとき、足を止めて振り返り、…言ったのだ。
「ねえ、貴方さ―こんな賭けで満足してる?」
それが、始まりだった。