(―ダリル)
(―ダリル!)
―声が、聞こえる。
私を呼ぶそいつの声が、いつも。
たとえば、何の意味も持たない、とりとめない会話がとぎれた瞬間だとか。
気の済むまで風をきり、地上に降りた私を出迎えてくれたその頭をなでてやった後だとかに。
(置いていかないでくれ)
私を呼ぶのは、飢えたような目でこちらを見上げてばかりいる小さな男の子。
(こっち向いて、)
後ろから私の足にまとわりついて、にらむように見上げてくる銀色の子猫。
(抱き上げてくれよ)
ぷいと逆方向に歩きはじめて見せては、思い直したようにあわてて私を追ってくる、紫の目の子猫。
(何、どしたの?)
ちらりと目を向けてやれば、とたんにそいつは私を呼ぶのをやめ、むくれたように目を伏せる。
そして何か言うかわりに、そうっと、おずおずと、この身に唇を当ててくるのだ。
その場所が私の髪や指や肩先の、どこなのか、は時によって違っていたけど、そのたびに私は、少し笑ってその頭を抱きよせ、額をあてる。傷跡のある頬や額に唇を触れかえす。
…いつものことだ。やわらかく懐かしい、幼いあたたかさを互いに与えあうだけの。
それは言ってみれば、お互い全く欲望を抱かない兄弟のキス、とでも言うのか。
あるいは、犬が頬をなめるような、だとか、猫が毛繕いでもするような、とでも。
そいつのことは好きだけど、それが恋愛感情だなんて失笑してしまう。
傍からみれば抱きしめあっているのだろうけど、それは堪らず燃え上がる感覚ではなく
恋した男に触れられたときのように、もっと欲しいと思うことなどなく
相手はいつも、必死に暖かさを求めてぎゅっと目を閉じているだけで
私が包んで暖めてやらないとそいつは崩れ落ちそうに見えて
そして、他の生き物の体温を求めていたのは私だって同じことだった。
*
「日が沈んだわね―」
携帯用の酒瓶を口に当てながら私がそういうと、セッツァーは首ごと顔を反らせてこちらを見上げ、「あ?」と言った。
緩い崖の上に座っているために、ずっと広がっている平原の向こうになだらかな丘陵が広がっていて、夕闇がおり始めた景色の中で、小さな街の明かりがぽつぽつ灯りはじめているのがよく見える。
暖かな風がときおり強く吹き抜けて、ほのかな甘い香りが鼻をかすめる。近くに花でも咲いているのかもしれない。
日が沈んだからすぐに暗くなるわね、といって私はセッツァーの髪をくしゃくしゃとなでてやり、ついでに最近そいつがこしらえてきた顔の傷をのぞきこんだ。小綺麗な顔をしているくせに、見るたびにどこかしらケガだのなんだのしている。真新しい傷は、赤く盛りあがっている。
要は、そいつは無頓着なのだ。自分の痛みや不自由や、そういったものに対して。
しげしげ見ているうちに、目が合う。顔が近かった。
「…あのさ」
「何」
「キスなんかすんなよ」
「誰がするのよ」
鼻で笑ってやった。いきなり何を言い出すんだか。
「あんただったら、そうねえ。7千5百ギルってとこかしらね」
「高ぇな」
「あたり前じゃない。だってさ、笑っちゃうわよ悪いけど」
「その言葉、そのまんま返すぜ。お前に口塞がれたら息が止まるぞ馬鹿野郎」
毒づくのを無視して酒を口に含む。
「でさ、今回のこの傷は何して増えたの」
「忘れた」
「忘れたってことはないでしょ、昨日おとついの傷じゃない」
「いちいち覚えてもねぇよ。今更ひとつふたつ増えたところで変わんねえだろうよ」
「イキがってんじゃないわよ、お子様」
「…るせ」
仏頂面で黙り込む無防備な表情に、また。
「まったく、ガキなんだから」
くすくす、笑みをのぼらせて、その大きな傷跡に唇を軽く当ててくすぐってやる。
「お前のキスは高い―んじゃなかったのかよ」
相変わらずそいつは顰め面だったのだけど、少し機嫌を良くしているのがわかるから、私はふふんと笑って体を離した。
「キスじゃないもの」
再度酒瓶をかたむける。アルコールに触れた薄い皮膚がひりり、とする。
「キスは惚れた男にしかしないわよ」
「…あ、そ」
セッツァーは軽く首をすくめ、私に向かって手をさし出す。
「じゃ、せめてソレ。ちょーだい」
「何よ」
「今おまえが呑んでるヤツ」
「やんないわよ」
「何だよケチ」
「私と同じもの呑むのは100年早い」
「あ、そ…」
「だいたいあんたってさぁ、その髪」
最近いいかげん鬱陶しいのよ。夕日を受けていてもちっとも色づかないで、銀色に光っている髪。指を通してぐるぐるかき回すと、ばさばさ絡みつく。
「ちょっとは揃えるなり、気を遣いなさいよね」
「何だよいきなり」
「いいからこっち向きなさい」
髪をかきわけて頭を掴み、こちらを向かせると、そいつは不満そうな顔で素直に座りなおす。
「…痛ってぇな」
「まーったく、ずるずる伸びちゃってだらしないったらないね」
「ほっとけっての」
「先のほうとかさ、ほら痛んでるじゃないよ。何で切らないのよ」
「面倒臭ぇ、」
一言唸って顔をしかめる幼い表情に
「ガキねぇ」
くすくす、笑いがこみ上げて。
「…うるせーよ」
「動くんじゃないわよ、切るからね」
ベルトからペティナイフを抜いて、すくい上げた髪のひと房に刃を滑らせる。手を離すと、長い銀の何筋かが風に舞った。
「頼むからあんまり刃物を振りまわすな、お前結構不器用だろうが」
「だから動くなって言ってんの」
「…つーかなんで俺、こんなトコでお前に髪切られなきゃいけないワケ?」
「あんたの頭がうざくらしいからじゃないのよ」
「だからほっとけっつのに」
「見てる私が迷惑なのよ。どうせ切ったところで可愛くないのは変わんないしさ、あんたなんか」
「…相変わらず酷ぇなお前」
ざくざく、耳の辺りの髪を落とす。体を離れた銀糸は崖の下へと舞い落ちていく。
頭に手を回すようにして後ろ髪を一掴み、ナイフを入れる。
刃をすべらせるたびに、かすかに輝く髪の毛は風に散る。
うちかかっていた髪がなくなっていくのがなんとなく心もとないのか、セッツァーは自分の首筋に触れて、目を細めた。
「ダリル」
そして不意に名を呼んで、私にふにゃりともたれかかってきた。
しょうがないね。少し笑って頭を抱く。額を寄せてやる。いつものように。
そしてまたいつものように、私の胸の底でもちいさな冷たい隙間が、くるり、満たされる。
「寄越せよ、酒」
「やらない」
よしよし、額をくっつけたままなでてやると、そいつは目を伏せたまま、また小さくうなる。
「なんだよ…」
「やらないわよ」
私はナイフを酒瓶に持ちかえて、自分のために口に運ぶ。
するとそいつは下を向いたまま、噛みつきそうな目をして
よこせよ、とつぶやいて顔をあげたかと思うと、唇を合わせてきた。
薄い唇は一瞬、離れ、
また強く、
私たちは唇を合わせた。
ひやりと濡れた細い舌が滑りこんできて、蠢く。
また風が強く吹いて、花の香りが頬をなでた。
舌が絡み、吸われて、上顎の内側あたりで、ぴしゃ、と唾液の音が響く。背中がなで上げられ、ぬるりとしたものが歯列をなぞった。唇の端を軽くかむと、か すかに甘い。その気がなくとも、鈍い熱さはぼんやりと頭の芯を締めあげはじめる。呼吸しようとすれば声を漏らしてしまいそうだ。
そのくせ、やたらと冷静に、どうしたら体勢が楽かな、などと思っている自分もいたりして
―息が苦しい。
…ああ、
困ったな。
つきはなすわけにもいかないじゃないの、
口内の温かさから意識を引き離して、私はさりげなく体を離した。お互い大きくひとつ、息をする。
「…は…あ、」
やはり怯えたような、睨むような、紫色の視線と目が合った。
二人ともずっと息をつめていたのか、と思うとなんだか可笑しくて、くすり、唇の端を上げた。
「キスじゃないって言ってんでしょ」
そいつは、地面に下ろされて不満げにこちらを見上げる子猫の顔で目を光らせて、ふいと視線を外し、唇の端をこし、とこすった。
「…どんだけ強い酒飲んでんだよ、お前」
「リキュールだけど。やっぱりお子様にはキツかった?」
「つぅかクセが強すぎんだよ。よく飲めるなそんなもん」
「るっさいわね。ほら後ろ向きなさい、髪揃えるんだから」
「…はいはい」
(…ダリル)
―声が、聞こえる。
悲しそうに、愛しそうに、焦がれるように、せっぱつまったように、私はその名で呼ばれる。
呼ぶ声はだんだん響きだけになり、私はとりとめもなく幼い記憶を思い出す。
(―ダリル?)
聞こえる。
私を呼ぶ声が、いつも。