
私が住んでいた街には大きな時計塔があって、どの街角からもよく見えた。今はもう無い。
道は石造りで、市場はそこそこ大きくて、いつも薄い青の空に雲が浮かんでいた。
世界の南方に位置する大陸の、小さな美しい国と大きな帝国の間(はざま)の街だった―というのは、もう少し大きくなってから知った話だ。
街の大人たちからはすこし敬遠されていたその人のことを、私たちは小母(おば)さんと呼んでいた。
小母さんはよく街角にたたずんで、子供が遊んでいるのをじっと見ていたように思う。
私たち子供は、小母さんに呼びとめられてお菓子をもらったり頭をなでられたりすることがあった。
小母さんの目は片方が横を向いて睨んでいるように見えて、時々私は逃げた。
けれど なぜか小母さんは私だけを、いつも私の知らない男の子の名で呼び止める。
私は確かにいつも半ズボンなどはいて走り回っていたから、男の子に間違えられることはときどきあったのだけど、それにしてもなんでそんな名前で呼ぶんだろう、と思っていた。
怖くて不思議で、私はいつも少し離れたところから小母さんをそっと振り返った。
親戚のおじさんが言うには、小母さんは、「可哀相な人」なのだそうだった。
大人同士の噂話によれば、小母さんは以前、まだ小さかった男の子を亡くしたらしい。
その子は、私とよく似た色の金髪だったのだそうだ。
それからずっと、小母さんは子供を見れば自分の息子ではないかと思って近づいては話しかけるようになったのだという。自分の子ではないとわかるたびに、あとでひっそり泣くのだという。
それを聞いてから私は、小母さんに声をかけられても逃げるのをやめた。
確かに「可哀相」だと、そう思ったから。
私が振り返って近づけば、小母さんは穏やかな笑顔になってなでてくれる、それでいいやと思ったから。
片方だけ横を向いた目はやはり怖かったけど、私は言葉少なに小母さんの笑顔に頷くようになった。
―そして、あの日が訪れたのだ。
その日も私は、出がけに玄関先で寝ている年寄り犬をぎゅっと抱いてやってから、遊びに行った。
近所の子は留守にしていて、私はひとりで街外れの丘に歩いていった。
花を摘んだり虫を捕まえたりし、昼過ぎにおなかがすいて、木の上からうちの方を振り返ってみて、気づいた。
街中のあちこちから煙があがっていた。
かすかな風にのって、すうっと焦げ臭い匂いがした。
悲鳴や金属や軍靴の音を含んだ、不穏なざわめきが立ちのぼっていた。
(なにが起こっているの?)
ぞくり、黒っぽいものが背中におおいかぶさったような気がした。
座っていた枝から滑り降りる。せっかく摘んだ花を落としてしまったが、かまわずに丘を駆け下りた。
走っても走っても街につかない。胸が苦しくなる。
自分の歩幅が小さくてもどかしかった。
ようやく街路に入ると、道に何人もの人が倒れていて、石畳がところどころ黒っぽく濡れていた。
嗅いだことのない、むっと熱をもった空気が鼻をつきあげてきた。
立ち止まってぐるりと見回すと、そこから見えるはずの大きな時計塔が途中からぽっきり崩れ落ちている。塔だけでなく街中の建物や道路が壊されていて、あちこちにできた瓦礫の山が、何かひとつの大きな狂乱が終わったばかりだということを示していた。
埃が舞いあがる中には誰も動いておらず、ただ残っているのはそこらじゅうから慌しく人が出て行った気配。
(なにが起こっているの)
再び走り出そうとして濡れた地面に足を滑らせ、手をつくと、てのひらにはどろりとした赤黒い液体がねばりついた。
吐き気をもよおすような死の臭いがした。
思わず、建物であったであろう残骸の影にもぐりこんで身を固くした。
不気味なほどにやたら明るくて、音がしない。
本能的に、「誰か」に見つかったら終わりだ、そう思った。
そっと首を出して、まわりに誰もいないことを見すます。背をかがめ、道の隅を走り抜ける。
つまづいた拍子に靴が片方脱げ、転んでしまった。もう片方も脱ぎ捨てて起き上がり、また走っていく。
家にやっと駆け込んで、泣きそうになりながら声をからした。
「おかあさん!」
返事はなかった。
「おとうさん!」
やはり家中がしんとしていて、ひどく広くなっている感じがした。
「おかあさん…」
必死で涙声になるのを我慢しながら、家中のドアをあけてまわった。
やはり中には誰も居なくて、嵐が吹きまくったように色々なものがひっくりかえっていて、ぼんやりとした暗さだけがそこここに溜まっていた。
どこにいったの。
どこにいるの。
どうしたらいいかわからないよ。おかあさん。
おとうさん。
おかあさん!
「…待っていなきゃ」
私は涙をこすりながらただ、そう思った。
「おかあさんとおとうさんは今出かけているけど、きっと帰ってくる」
「だから、待っていなきゃ」
そう信じる以外に幼稚な考えは思いが到らなくて、私は玄関先まで戻って座り、寝ていた大きな犬をぎゅ、と抱いた。
自分以外の生き物の温かさに包まれ、ようやく心細さがすこし落ちつく。
腕の中の大きな老犬が頬をなめてくれた。
ざらりとした舌の感触に、張りつめていた糸がゆるんだのか、私は急激に眠りに落ちた。
どれほど経ったのだろう。
目が覚めたとき、私の周りには傾いた日の鮮やかな光がしんと差し込んでいた。
がらんとした家の中にはやはり誰もいないようで、ひどく静かだった。
身動きすると、腕の中の老犬もぴくりと目を覚まし、またそっと頬をなめてくれる。
そのときの私には、その温かさだけが頼りだった。
ああ、まだおとうさんとおかあさんは帰ってこないんだな。
起き上がりもせずにぼんやりそう思い、また眠りこんでいった。
私はおそらく何日かの間、犬を抱いて眠り続けていた。
時折目を覚まして水を飲みに行き、また犬を抱いて眠った。
「…おかあさん」
お出かけが長いんだね。
「おとうさん」
おじさんに呼び止められて、お話しているの?
「おとなりのアンおねえちゃん」
おねえちゃんもやっぱり、お家にいないの?
「小母さん」
そういえば、小母さんはどうなったんだろう。
なつかしそうな、優しいのに悲しげな表情で私を呼び止める、あの目はどこに行ったんだろう。
「―ダリル?」
私をそう、私の知らない男の子の名で呼び止める、片方だけ横を向いた目は、この街のどこかにいるんだろうか。
まるで起きながら眠っているような、眠りながら醒めているような、
うとうと、夕陽の色をまぶた越しに感じながら、私は待ち続けた。
誰も助けに来てはくれないと見切りをつけるには、私はほんの少し、幼すぎて
一人でこの世を生きていくには、私はほんのしばらく、早すぎた。
いつの間にか腕の中の犬はひどく冷たく硬く、そして私の頬をなめなくなっていた。
けれど私は腕の中のおおきな毛並を離すことができず
ただ、じっと誰かを待ち続けることしかできなくて。
上から、大人の声がした。
「―ダ…ル?」
…おかあさん?
ううん、違う。
「―ダリルや」
ああ、そう呼ぶのは小母さんだ。
違うよ、私はダリルじゃないよ。
だけど、だけど
(私は冷たく硬い大きな犬を抱いたまま)
「さあ、起きて、うちに帰ってごはんにしようねえ―ダリル」
そうっと片目を開けると、たしかに前に座っているのは小母さんだった。
窓からは夕陽が照っていて、その顔は逆光になっていた。
手を差し伸べてくる小母さんの目は、やはり片目が横を睨んでいて少し怖くて、だけど涙で光っているように、私には見えた。
(私は犬の死骸を抱いたまま)
そのとき小母さんの目は、泣いているように見えた。
だから、―だから
「ダリル」
私は小さくうなずいて犬から腕を離し、小母さんに手を伸ばした。
立ち上がった体は冷たい空気に包まれる。
抱くものが何もなくなった腕の中に、すうと冷たい風が吹き込んできた気がした。
小母さんのしわの多い手は暖かく乾いていたけど、私のこころはそのとき、そのぬくもりを感じ取れず
自分が、親だけでなくなにか大きなものを失ったのだということを、ただぼんやりと認識していた。
―そしてその日から、私はダリルになった。