「セッツァー」
仕事中にもかかわらず、ダリルに襟首をつかまれて賭場の隅にひっぱっていかれる。
「…んだよ、何しに来やがった」
わがままで気紛れで気分屋な、姉貴のような存在を、顔を半分しかめて見上げると、
「何よ、賭場に客が来ちゃいけないの?」
空の女王は軽く受け流し、強い酒のグラスを紅い唇に当てる。
「あんたで遊ぶの。空以外だっていいじゃないよ、たまには」
「ここまで来て俺を甚振らなくてもいいじゃねェか…」
「人聞きが悪いわね、お客様よ?あたし」
「…そりゃ、どーもイラッシャイマセ」
「可愛くないわよね、あんたって本当」
もう何度もくり返したような意味のないやりとりがたゆたい、くすくす、ダリルは喉の奥で笑う。
思わずセッツァーは、ヤバイ、と首をすくめてしまう。
それはダリルに1000ギルほど借りがあるからというだけではなくて、何かひとこと言えば8倍になって返ってくるからということでもなくて、どうにも頭の上がらないその女を見上げるのが、いつも眩しくてときどき恐ろしくて仕方ないこともあって。
「あーあ、あんたで遊ぼうと思ったけどつまんないしさ。おとなしくルーレットでもしてくるわ。行くわね」
こと、とダリルはグラスを置き、壁から背を離す。行った行った、と口の端をひん曲げてみせるセッツァーを、よしよし、なでて言う。
「あんたの髪ってここで見ると本当に綺麗な銀色よね。光ってて―」
いい子にしてなさいね、軽口を言いかけながら銀髪を指先に軽く絡ませ、笑ってから、ダリルは歩き去った。
ふと触れたその手の冷たさが、いつまでもセッツァーの頬の辺りに残っていた。
*
―なんて綺麗な色なんだろう。
銀髪の少年は窶れた女に髪を掴まれ、引きずられていた。
いやだいやだいやだ、そう何度も呻くようにくり返す女は、ぼさぼさの髪を結っていないために、実際の年齢よりも老けて見える。
少年は、怖いとは思っていない。痛いとは思っていない。
頬や手に滲んでいるであろう血は目に入っておらず、女が紡ぐ呪いの言葉も耳に入ってはいない。
じっとしていれば、過ぎ去る。
抵抗せず。逃げず。何も見ず、何も聞かず、何も思わず。目を閉じていれば。
銀色よりも大嫌いなんだと吐きすてられた紫色の目を、せめて彼女に見せないように。
そのせいか少年は、大人になってもその女の目元の表情を思い出せない。
*
(…さて、行きますか)
セッツァーは再び、少々狂わされた調子を取り戻しに、賭博師の仮面を被って歩き出す。
夜はすでに深いが、しかし賭場という場所では一日はまだまだあと半分も残っているのだ。
いつ誰が訪れても、ここは眩いシャンデリアの光と澱んで温まった空気と、街の内外のどこからか集まってきた沢山の人で埋めつくされている。
どこぞの貴族の、パーティでもあったのか、遊び足りない風情の一団がセッツァーの持ち場のテーブルにわやわやと集まってきていた。
軽薄にかわされる会話と衣擦れの音、香水の匂い。お幸せな奴らだ、と片頬を軽くゆがめて一瞥し、座を仕切るディーラーの顔になって会話の中心人物を見切る。
見かけだけの甘い勝利を少しばかり味わわせてやれば充分そうだ、と思った。
さてどんな勝負をいたしましょう、スリルは結構ですが手加減はいたしかねますよ、などといい加減なことを言えば、金持ちどもは偉そうに頷き、わかったような顔をして賭け金をいくらにするかなど話しはじめた。
いささか頭と尻の軽そうな令嬢が色目をつかいながら頬の傷跡に指を触れようとしてくるのを綺麗に無視して、セッツァーはカードを切る。
*
―こっちを見るな。見るんじゃない。
少年は一生懸命に、床に顔を埋める。
女の痩せた指先が、銀色の髪を、ぬるりと掴んだ。
引っぱられるのか、抱きしめられるのか、殴られるのか。
たとえ殴られるのだとしても、その瞬間に触れることのできる母の手は暖かいと、少年は思った。
*
もう一度もう一度とくり返された勝負を適当にあしらって〆め、座を占めていた客の大部分が散り始めたところで、セッツァーは持ち場を離れ、壁に背をあずけてポケットの煙草を探った。
人の声と、様々なモノがたてる音。あちこちで勝負が始まり、終わりに近づき、悲喜こもごもの表情が空気を波立たせる。
賭場の喧騒は大きくなったり小さくなったりしながらも、カチリ、煙草に火をつける小さな音を持ち主の耳に届かせない。煙を吐いて、賭博師は冷えた視線を広い空間に投げた。
セッツァーがその女客に気づいたのは、彼女のちぐはぐな服装がとうてい賭場にはふさわしくなかったせいだった。
その客はすこし古びたストールを派手な外出着の上からまきつけ、ほつれかかる髪を撫でつけながら、せわしなく辺りを見回している。
おずおずとテーブルの間をぬって進もうとするが、他の客やディーラーにぶつかり、怯えたように道をあけたりする。
(放蕩亭主を探しに来た商家のおかみ、というところかな)
煙草をひとつくゆらせたところで再び女に目をやると、たよりなげに宙をさまよっていたその女の目線も、セッツァーのあたりで停止した。
―視線が、交叉する。
媚びるように醜く歯をむき出して、女は笑った。
茶色く落ちくぼんだ目と対照的に、その唇だけが真っ赤に染め上げられていた。
セッツァーは背筋を凍りつかせ、口を押さえた。
「…ぐ…ッ!」
かろうじて煙草を取り落としそうになるのをとどめるが、指先から力が抜けそうになる。ざわめきが遠ざかる。こみあげる吐き気をのみくだし、閉じられなくなった目を力ずくで逸らす。
女の、梳かれていない髪が。血の気のうせた頬が。
赤い唇が。
笑う。
笑う笑う笑う。
*
―なんて忌まわしい色なんだろう。
女は、少年の銀の髪を掴んで上向かせる。
私の子なのに私の息子なのに。おなじだおなじなんだあの人とおんなじだ、ぼろぼろ涙を流しながら、女は抑揚なく何度もくり返す。憑かれたように、怪我し ちゃったね、ごめんねごめんね、やせた血色の悪い手は少年の髪をなでる。窓から差しこむ夕日に、その手は赤く染まっている。
次の瞬間にはまた殴られるのかもしれない。罵声を浴びせられるのかもしれない。
けれど寒くはなかった。悲しくはなかった。
何も見ないでいることを、何も思わずにいることを、少年は知っているから。
身勝手なその女の、化粧気のない顔の中で、口許だけはやけに色鮮やかだった。その赤い色だけが、何年経っても記憶の沼の中から蘇り、彼に笑いかけてくる。
そのたびに、頭の中ではがんがんと、耳障りな金属音が響き始める。目を瞑り、息を止め、耳を塞ぎ、声を押し殺して、賭博師になった少年は不快な耳鳴りをやり過ごし続ける。
*
セッツァーは縺れる足を引きずって薄暗い脇廊下に入った。
壁に手をついて肩で息をしていると、背後に細いヒールの音が近づく気配がした。声をかけられる前に振りかえり、鋭い視線で相手を先制しようとして、
「…ダリル」
大きく息をついて、気が抜ける。
「ちょっと、あんた大丈夫?顔色悪いわよ」
ダリルはかがんで目の高さをあわせ、セッツァーの顔をのぞき込んだ。
「…まだ居やがったのか、お前」
「居たのかじゃないわよ、急に出てくのが見えたから。どうしたのよ」
吐きそうな表情のセッツァーを、ダリルは抱えるようにして背中をなでた。
「…たいした、ことじゃねぇ、」
目を細めて見上げた視界に、鮮やかに染められた口元がちらりと入って。
―こいつの唇も
紅いな。
ぞくり、背筋が冷えたけれど
けれど、それは
脳をえぐるような薄暗い記憶の中の、赤、とは別のもので。
「頭が…がんがんしやがる」
否、頭など痛くはない。頭の中で響きはじめただけだ、「例の」音が―耳に障る金属音が。いつも忘れたふりをしている、鳴り止んだことのない音が。
ダリルはその髪をなで、背中に手をまわして、落ち着かせるように静かにぽんぽんとたたく。
彼女は何も言わないが、判っているのだ。彼が、抱きしめてもらわなければ崩れ落ちてしまう小さな子供になっているのだと。セッツァーは疑うことなく、そう信じた。
頭の中の不快な音は、虫の羽音のように感覚を食いつくしにかかっている。
セッツァーの中で、それを爪にかけて引き倒し、殺してしまおうとする凶暴な意識が、かすかなうなりを上げて首をもたげた。
「…ダリル…っ」
セッツァーはうめき声を喉の奥で押し殺し、細い肩に頭を預けてしがみついた。
ダリルも、その腕の中の子猫の熱さを抱きしめる。
髪をかき分け、頭を抱き寄せ、額を当てた。
自分を求めてくる小さな生きものをいとおしむ、支えなければと思う、その温かな気持ちと同時に、どうしようもなく冷えきった怯えが相手から流れ込んでくる。
彼女のこころのどこかには殺伐とした荒野が生まれる。冷たい風が吹きこむ。
そして、埋まったはずのちいさな隙間が底なしだということを、改めて感じてしまう。
「…おちつきな」
落ちついて。あたしはあんたをこうして抱いているからね。
怖くないから。
さびしくないから。
悲しくはないから。まるで自分に言い聞かせるように。
「大丈夫だから」
そう、ダリルは言ったけれど。
言葉は、伝わってもその通りの意味をもつとは限らない。
そのとき、言ったほうも言われたほうも、同時に思った。
(―大丈夫じゃ、ない)
…足りない。
これでは満たされない。
どろり、うごめいた不満は衝動に変わった。
知らず手に力を込める。互いの肩をつかみ、荒っぽく抱き寄せて唇を重ね、髪を弄りあう。
(大丈夫じゃ…ない)
目の前の肌の温度を味わわずにはいられない。
相手の息遣いを間近に感じ、喉元に舌を這わせ、背中を抱いて近づきあわずにはいられない。
けれど触れた部分は、顔も、髪も額も腕も胸元も、廊下の隅の薄暗い闇に沈んで、よく見えない。
胡乱な視界をよいことに、目の前のぼんやりと白い塊の温かさを求めあった。
寒かった。
まだまだ寒かった。
いくら抱きしめても、服に手を滑りこませ、体の線を探りあっても暖まらない。頭の中に響きわたる癇に障る音は止まない。もっと触れなければ、止まりそうにない。漏れそうになる喘ぎ声は口を塞いでおさえつけた。首にまわした腕に力がこもる。
逃げるように、追い立てられるように、二人は互いの体温を貪りあった。
華やかな照明と人の喧騒が、はるか遠くからちくちくと皮膚を刺していた。