一度目は、衝動だった。
二度目は、馴れ合いだったと思う。
三度目は、何だったんだろう。
何度お互いの素肌をさぐりあっても、セッツァーも私も、甘い睦言なんてひとことも発したことはなかった。
いつだって、私たちはそうだった。
そいつを愛していたのか?と聞かれたら、私はたぶん笑い飛ばしただろう。
散々、涙が出るほど大笑いして、なんでアレに惚れなきゃいけないのさ?と言っただろう。
私にとってそいつは、抱きしめれば寒さやなんとなしに感じる心細さを埋めることのできる相手で、やわっこくて熱い銀髪頭をかかえているとなぜかよく眠れ て―そしてそいつにとっての私もそういう相手で、ぎゅっと目を瞑って私にもたれかかったまま、子猫のように無防備に丸まって寝入ることができて―つまり私 たちは、男女の行為があってもなくても、ちいさな姉弟のように向かい合ったまま朝を迎えるのが、いつしかあたり前になっていたのだ。
二日酔いのまま目覚めたときならひどい顔を馬鹿にしあい、早く朝飯を作れとセッツァーをベッドから蹴り出せば、言葉になるのは艇のエンジンや重量についての議論、それにののしり合いと馬鹿話、それらと共にただひたすら、私たちは飛び続けた。
セッツァーを連れてどんな店に入っても、どんな知人に会っても、「あの銀髪野郎はファルコンのクルーなのか」と聞かれることはあっても、「奴はお前の男なのか」と言われたことは一度もなかった。
飲み比べや殴り合いの喧嘩もする。風を浴びて笑いあう。最高速度での飛行そのままに。
眠くなれば、何の言葉もなくただ抱きあって眠る。エンジンの火をおとして。
そして今日も目をさますと、隣でセッツァーが死んだように眠っていた。
いつものように、いらついたような睨むような目で、するりとファルコンに入り込むなり、「ブラックジャックが壊れた」と一言つぶやいて、フテ寝してしまったのだ。
慰めても励ましても腐っているので、私はよしよしとその頭をなでてやり、そのままいっしょに眠り込んでしまったのだった。
部屋にはランプの黄色い光が暗くゆらめいている。夜はまだ深い。
眠ろう、と身動きすると、セッツァーはにわかに顔をしかめて寝返りをうった。
「…う…」
起こしてしまったかな、と少しひやりとした。見ていると、目を閉じたままひどく苦しそうに声を上げる。
「う…あッ…!」
悪夢でもみているのだろうか。その髪をなでると、冷や汗がしっとりとこめかみを濡らしている。どうしたの、と言って顔をのぞきこむと、ぼんやりと焦点の定まらない、うすく開けた紫の目が怯えたように私を見上げ、ふるえはじめた。
「やめ、て…ください、許して…」
「セッツァー?」
「許して。笑わないで。笑うな…」
「どうしたのよ?」
「笑うな…笑うな!やめてくれ、離してくれ!離して、」
「セッツァー!」
身を縮め、うわごとをくりかえすそいつに、おちつきな、と強く声をかけると、ようやく目を覚ましたようだった。
「あ…ダリル?」
「起きたわね。よかった、すごくうなされてたよ、あんた」
内心ほっとしながら髪をなでてやると、そいつはぎゅうと目を瞑って、私に体を寄せてきた。冷えた薄い唇が、おびえたように肩先に当たる。
「…夢だった、か…」
「嫌な夢だったみたいね」
「いや…、」
わかんねえ。
目に落ちかかった銀髪をはらって、セッツァーはまた、うっすらと震えはじめる。わかんねぇ、わかんねえよ。そう平坦な低い声でつぶやきながら、もそりと背を丸めた。
「そうだな、多分、嫌な夢だったんだな…笑ってたんだ」
「は?」
「女が、笑いやがるんだ…」
―笑うんだ。
―笑いやがるんだ、
何度も何度も、そいつは呟いた。
―何人かがかりで裏通りで殴られるなんて割とよくあるけどな、そのたんびに…
女が笑うんだ。
けたたましい母親の笑い声が、金属音のように頭の中で響くんだ。
けらけら、けらけら。
―今日はブラックジャックの部品が抜かれてるのに気づかなくてさ、飛ばしたらエンジンがひとつ吹っ飛んだんだ。岩場に突っ込みかけた時…
やっぱり女が、赤い口をあけて笑ったんだ。
けらけら、けらけらと。
耳障りな金属音が、がんがん響いて、押しつぶされそうだ。
―わからない、わからないんだ、もう頭ん中ぐちゃぐちゃで、変な記憶ばっかり蘇りやがる、
私にしがみついてくる長い指は、熱くならない。
―ブラックジャックはまた飛べるのか?空に、行けるのか?俺はもう、空でしか息ができないのに。
肩をぎゅっと強張らせ、目を強く瞑っているその頭は、柔らかくて、重い。
賭場でふと顔を上げるたびに。
空から地上に降りてこなければいけないたびに。
夕日を背にした赤い唇の女に、嘲いながら見下ろされる気がするのだと。
そしていつも、耳に障る金属音が頭の奥から響いてくるのだと。
そのヒステリックな音は、ずっと体の芯から消えたことがないのだと。
…初めて聞いた、話だった。
すっとまわりの景色が遠ざかるような感覚に、言葉を失った。
「…紅い、よな」
そいつは、関節の目立つ指を伸ばして、私の唇に触れた。
「お前の唇は―怖ぇんだよ」
「…え?」
もしかしたら私は、おびえた目をしていたかもしれない。ひどくせっぱつまった顔をしていたのかもしれない。
その指先は顎の線をなぞり、なんでこんな色の、と呟くと、半身を起こして私を押し倒し、首筋に顔を埋めた。なによ、と言って、やわっこい銀髪をなでてやろうとした手首を強く押さえこまれる。
…動けない。
離して、と言いかけた喉元が、かみつくように吸われた。
「だから―」
触れられた部分が濡れる感触がした。
「だからさ」
声が、出ない。冷たい舌先が、胸元に降りていく。
「だからお前は――口紅を塗るな」
世界が。
ぐにゃりと歪んだ。
視界の端に入った自分の爪が、ひどく赤く見えた。
怯えと恐怖と怒りが渦をまいて、セッツァーを内側から壊そうとしているのだ。どうしようもない無力感に追い立てられて、私に抱きしめられるのを求める小さな子供に戻っている。だからそいつを、いつものように抱きしめて支えてやるのは…正しい。
けれど。
けれど私は、
…私は、こいつを受け止めきれるだろうか。
頭の中で虫の羽音が響き始める。
冷たい大きな手はおびえたように私の背中をなで上げ、いとも簡単に服を引きはがしていく。
背中の後ろで長椅子が、ぎしり、と鳴った。
体の上の大造りな骨格は 男にしては細っこいほうだと思うけれど、背中の厚みも指先の線の太さも私とは違うし、腕には筋肉の重みが乗っている。肩幅は私よりもずっと広い。腰を抱いている手にこもる力が、だんだん強くなっていく。抱きしめられて、逃れられない。
初めて、そう、初めて―そんなことをぼんやりと思い、自分の中で何かが、音を立てて割れた。
ぱりん。
それは、「弟」扱いしていた存在。
感じていたのは
女として男の身体の重みを感じとるときの、甘やかな恐怖ではなく
もっと体の奥底からわきあがる、薄ら寒い感覚。
…間違えたのかもしれない。
…最初から、私は間違えていたのかもしれない。
…セッツァーが、これほどまでに暗いものを抱えていたなんて。
いちばんもろい部分を背負ってやる覚悟もないままに、今まで何度、私はこいつを抱きしめたのか。
こいつを抱けばずっと暖かかったと思うのに、今、空気にさらされた体は、こんなにも寒い。
「…ダリル」
そう呼ばれるたびに、私はびくりと反応してしまうのだけど。
「ダリル」
そう呼ばれるたびに、呼んだそいつよりも呼ばれた私のほうが怯えてしまうのだけど。
「ダリルっ…」
そう呼ばれるたびに、私の中の小さな女の子は叫び声をあげる。
…私はそんな名前じゃない。
私はそんな名前の女じゃない。
もたれかかれば崩れおちてしまう子供でしかないのに。
離して。しがみつかないで。そんな声で呼ばないで。私を呼ばないで。
ぶんぶんぶん。
…ああ、うるさいな。
頭の中の虫の羽音だ。
(…でも)
もう一人の私が、ふとささやいた。
(今まで支え続けたのは、私じゃないか)
虫の羽音が、急に静かになった気がした。
(もたれかかってくるこいつに、満足していたじゃないか)
何度も何度も受け止めて、突き放すこともせずに甘やかし続けて。
セッツァーを支え続けるしかない、そこまで自分で自分を導いておいて、今更―だ。
今までいつもそいつを抱きしめてやっていたようでいて、実はそう望んでいたのは私自身だった。
いつもどこかで、私はそいつがもたれかかってくるのを「待って」いた。
―違う?
―違わない
思考が冷えていく。
やや荒っぽく胸を揉みしだかれて舌先で弄られ、私の肩はぴくん、と跳ねる、身体の反応とは裏腹に、視界に入るものはどれも、水の底のような鈍い薄闇の中で、鋭く黒く形をあらわしていく。
恋愛感情と言うには幼すぎて
友情と呼ぶにはもたれ合いすぎていて
兄弟愛と称するには互いを知らなさ過ぎた
でも、
だから
そいつを支え続けること、は
「義務」だった、
…から
(筋は通そう)
私はぐっと背筋を伸ばして、冷えた唇をセッツァーのこめかみに当てた。
熱を持った薄いまぶたが、ぎゅっと強く閉じられている。
虫の羽音は、もう鳴らなかった。
おびえた仔猫が親のぬくもりを求めるように舌が這った。小さくぴしゃりと水音が立つ。
そのまま、私の体の最も温度の高い部分をなぞるように、胸元からみぞおちを経て、腿の間に至るまで、唇がそうっと痕跡をきざんでいく。
冷めきった頭とは裏腹に、喉からは細く声が漏れた。
「―ダリル」
寒さにふるえているような、かすれた声がまた私を呼んだ。
壊れそうな自分のこころを抱きしめるかわりに、セッツァーは私の中に入ってくる。
ちいさく呻く。熱い異物が私を満たす。体温がなじみ、溶け合う。喘ぐ。
少しして、体の奥が掻き回される感覚。
…怖くはない。
痛くはない。
寒くはない。
悲しくはない。
私は、こいつに、望むだけの体温を与えよう。
私は、こいつを―抱こう。
何度でも。
寒くなくなるまで。
泣き出しそうに熱い男の重みをうけとめながら、私はただ天井を見つめていた。
窓からは、ほのかに地平線を照らし始めたばかりの、暁の空の色が流れこみ始めていた。