ダリルが浅い眠りから覚めたとき、横には子猫のように丸くなったセッツァーが寝息を立てていた。
今まで一度も見たことのない―他の誰も見たことのないであろう、安らかな、無防備な顔だった。
自分の体にからみついたその腕を、そうっとひきはなした。傷跡のある頬をなでて毛布をかけなおしてやると、さっと服を着なおし、ファルコンから滑り出る。
朝を迎えたばかりの、刺すような澄んだ空には、月と星が弱弱しく白く光っていた。
愛機の周りを、ひとつひとつ手をかけた部品を目に焼き付けていくようにぐるりとめぐっていった後、少し離れた崖の下に足を向けた。いつもセッツァーがブラックジャックを泊める場所だ、今日もどうせそうなのだろう。
はたしてダリルの予想通り、黒い武骨な艇はそこにあった。
勝手に底部からもぐりこみ、エンジン部分を見渡す。ふっ飛んだ、と聞いていたそれは、彼女の技術をもってすれば大した手もかからず修理できそうだった。
そして、さらに。
少しの間見ないうちにブラックジャックの駆動力が大幅に上がっている、ということを、ダリルは素直に認めざるをえなかった。
あと数年―いや、もしかすると一年と少しも経てば、この艇はファルコンよりも力強く、一番高い雲を突き抜けることができるようになるかもしれない。まあ、持主が何を思ったのかごてごてと入れてしまった賭博設備を除けば、の話だが。
(…悔しいけど)
いつか彼女は追い抜かれるだろう。焦がれ続けた星空の中へと舞い上がっていく他の艇を、ファルコンから見上げるようになるだろう。
―いつか、そうなるのならば。
その前に、できるだけ早く近いうちに、否、今すぐに、高さとスピードに挑んでみたい、と、そう思った。
再び外に這い出ると、かっと地を照らしはじめた太陽の熱が、ダリルの波打つ金の髪を輝かせた。
ブラックジャックにもたれ、目を閉じればまぶたの裏が赤く染まる。
―自分ひとりだけで、誰も見たことのない星空の中を飛ぶことができたなら。
(きっとあたしは、何にも負けずにいられる。空で追い抜かれたって、セッツァーの一番弱い部分を支え続けてやれる)
そして何より。
ファルコンを手に入れてからずっと、だれよりも速く飛んで、だれよりも高い所から見たくて見たくてたまらない満天の星空は、この光の届かないところに、必ず、存在しているのだ。
遠慮がちに声がかかった。
「…ダリル」
そっと彼女が目を開けると、顔を半分しかめた銀色の猫が立っていた。
「…カゼ、ひくぞ」
「…いたの」
いるんだよ俺は、とぼそぼそいいながら、セッツァーはダリルに近づこうかどうしようか決めあぐねていた。
一方のダリルは気にとめる様子もなく、ブラックジャックの機体を指先で軽く叩きながら、先ほど下にもぐりこんで見定めたエンジンの見立てを口にする。
「ふっとんだって言ってたエンジンだけどさ」
…ここと、あの部分に負荷がかかっちゃうわけ。だからここの部品を組みなおして、配管をすこし減らして…。
「直せるわよ、そんなに手もかからずに」
やっぱり敵わねぇな、お前には、と、セッツァーはまたぼそりと言った。
ダリルはセッツァーに向かって、にっ、と笑ってみせ、踵を返した。
「あったり前じゃない、あたしと張ろうなんて百年早いのよ。来なさいよ、スピードってどうやって出すのか―見せてやろうじゃない」
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「落ちんじゃないわよ、飛ばすからね」
ダリルは髪をかきあげ、簡単に纏めて、肩にこぼれ落ちた金糸を払った。ふわり、とかすかな香水が香る。
「…何してんの」
「髪下ろしてたら風で乱れるでしょ、ちょっとぐらい待ちなさい」
あーそういやぁお前も女だったんだな今思い出したぜ。横を向いてそう毒づく銀髪頭をごんと殴り、舵を握った。
白い優雅な艇のエンジンを起動させれば低い機械音がうなりをあげ始める。わずかな揺れとともに地面を離れ、木や岩や崖や草原がみるみるうちに小さくなる。地上にあるすべてが指先でつまめそうなほどの大きさになったところで、ファルコンは朝日を背に空を翔けはじめた。
何度も今までそうしたように、セッツァーは斜めうしろからダリルの後ろ姿を見つめる―目を細めて。
まっすぐな背中。袖からのびる腕は白く、細い。かたちのいい脚。緩やかに波打って風に流れる金色の髪。それは夕陽の中では燃えるような赤毛に見える、あまりにも鮮やかな黄金の糸。今、その金色は朝の明るい光をひとところに集めているようだ。
「…ダリル」
「…あんたってさ」
冷たい風がうなりをあげている。
「ダリル、俺は…」
風があまりにも耳元で鳴っていて、互いの声は届かない。
「あんたってなんかあるとすぐ参っちゃうしさ」
ひゅうひゅう言う音は、冷たい。
「俺は、ずっとお前に、追いつきたくて」
かすれた小さな声は、風に飛ばされてしまう。
「ほっといたら一人で腐ってるしさ。あたしは、なんであんたの…」
艇が旋回すると、ごうっという風が耳をつきぬける。
セッツァーはおずおずと数歩、ダリルに近づいた。日の光がひどくまぶしくて、彼女に触れることができない。ダリルはちらりと振り返り、腕を伸ばしてくしゃりとその頭をなでた。
「まーったく。あんたってさ、いつになったらオトナの男になるのかしら」
「…ガキ扱いすんな!俺はとっくにハタチ過ぎてる!」
ダリルはまっすぐ空を見すえたまま、喉の奥でくすくす笑った。
艇はゆっくりと、旋回する。
「いつか絶対お前を負かしてやるんだからな―賭けでも、空でも…」
「そうムキになるのがガキだって言ってんの」
「…畜生、待ってやがれ。待ってやがれよ、俺は―」
「待ってなんかやらないわよ。あたしは気が短いの、知ってるでしょ」
エンジンの音に耳を傾けながら、ダリルはファルコンを地面に近づけていく。草や木々が轟音で揺れる。
「…聞いて。あたしは今度、ファルコンのテスト飛行に行く」
「テスト…飛行?」
「テスト飛行ってのは今現在の最速値を試しに行くってことよ、何聞き返してんの」
ずん、と腹に着陸の衝撃が響いた。舵を切り、ダリルは手際よくファルコンを地面に固定させた。
「…今度のテスト飛行は危険かもしれない」
「船の限界まで挑戦する気なのか?ムチャだ!」
何がムチャよこのあたしに向かって。だいたいあんたのほうが無茶苦茶な飛ばし方するでしょーが、まだまだヒヨコのくせに羽ばたく練習ちゃんとしなさいよ。小気味よくセッツァーをこきおろしながら廊下を歩き、髪をほどいてかきあげる。
ふわり、またかすかに甘い香りが漂った。
かつかつと足音を響かせていくダリルの後ろで、セッツァーは立ちすくんだ。
できることならば、もし許されるのならば、彼女にしがみつきたかった。
名を呼んで、すがりつきたかった。
行くな、と。置いていかないでくれ、と。そう言いたかった。
「ダリル―」
語尾がかすれて消え入りそうになる。
ダリルは足を止め、ちらりと振り返ると、眉を撥ね上げて唇の端をわずかにあげた。
「私にもしもの事があったら ファルコンはよろしく―」
*
夕日に向かって加速しはじめてから、おそらく大した時間は経っていなかっただろう。
速度計が振り切れるほどにファルコンを駆り続け、いつしか目の前にはダリルが焦がれてやまない突き抜けるような空が広がり始めていた。水平線から中天に かけての茜から群青にいたるやわらかなグラデーションの、ところどころに星が光っている。幾度となく急旋回しながら見上げた、夜と昼との境目に輝く満天の 星空はもうすぐだ。
ファルコンは一度ゆるやかに弧を切った。
再び速度と高度を一気にあげていく。ごうごうとうなりをあげる風の音は、今までにない激しさ。一瞬、自分が空気の渦の音そのものになってしまったのではないかと錯覚する。過去最高のスピードをたたきだした感触を、薄い雲の中でダリルは確かに感じていた。
やがて、極上のビロードのような瑠璃色の闇がファルコンを包んだ。
―空を越えて天に到ったのだと、そう思った。
今まで見たいつよりも近く、手を伸ばせば届きそうなすぐそこに、数多の星座が輝いていた。
そして振り返れば、地の果てが燃えていると見まがうほどに赤い赤い―血のような色の―夕映えが、はるか遠く、円い地平の線を描き出していた。
ダリルは、笑っていた。
飛んでこれたじゃないか。
見たかった空はここにあるじゃないか。
自分ひとりだけの力で、誰も見たことのない至極の空を見ることができたじゃないか。
この一面の煌星は忘れない。絶対に忘れられない。もうきっと、あたしは何があっても崩れ落ちないでいられる。まっすぐこの空に向かって、地に足をつけてだって立ち続けていられる。
ダリルは天を見上げ、笑っていた。この上ない熱さで胸がいっぱいで、涙が流れそうだった。
ゆっくりと、空中停止近くまで速度を落としたファルコンのエンジンが、そのときにはすでに急速に冷え始めていたのだったが―彼女はまだ、全く気づいていない。
…ダリルの最後の時が、近づいていた。